2002年9月10 じん肺肺がんの全面認定を迎えて

本年8月、厚生労働省は、検討委員会の結論として、ついにすべてのじん肺に発生した肺がんを業務上疾病とすることを表明した。関係省令などの変更のため、これが動くのはおそらく来年であろうが、私たちが10年前から主張していたことを、ついに全面的に受け入れるという結果に落ち着いた。この問題に最前線で取り組み続けた者として、ある種の感慨とともに一種の虚脱感を感ずる。

13年前、私のもとにある一人の肺がんで死亡した方についての相談があった。その方は、じん肺で認定されていた。当時、管理4という最重症のじん肺のみが、肺がんの合併を業務上として扱われていたが、この方は管理3であったため、労働基準監督署から業務外決定が出されていたのである。この方は野中政男さんといい、この争いは野中事件と称されることになった。私は、一審、二審に医学証人として法廷に立ち、詳しく因果関係を論じたが、多くの権威者の反論、異論に会い、裁判所をして、「際限ない議論が続いている」だけと評価され、一審では勝訴したものの、二審、最高裁ではいずれも敗訴であった。二審敗訴までの状況は、Libraryにある「腐りゆく肺」に詳しく描いてある。

状況が変わったのは、野中事件上告中の1997年に公示されたIARC(国際がん研究機構。WHO内の組織)のモノグラフであろう。そこでは明確にシリカ(じん肺の原因物質)の発がん性が肯定され、シリカ暴露者と肺がんの関連を認めたものである。このモノグラフは、世界各国から集められた研究者が、検討チームを作り、集中的に討議された結果である。ところが我が国から招聘された研究者は皆無であった。そのことを逆恨みしてか、我が国の権威と言われる方々は、このIARCの結論を憎悪し、反論することに懸命になられたりしたのだ。それが裁判所が、IARCのモノグラフ公刊後も因果関係を肯定しなかった大きな理由となった。しかし、私も意見書提出で関わった広島高裁での原告勝訴(一審も勝訴)と確定、同年の日本産業衛生学会でのIARCの結論受け入れなどのうねりに呑まれ、昨年6月、厚労省も管理3ロ以上のじん肺に合併した肺がんを業務上にするという、認定枠拡大の通達を出した。さらに本年3月になって、管理3イまでを認定するというように拡大され、最後に管理2のじん肺をどうするかが残る課題となっていたわけである(管理1はじん肺なし)。そして実質的にはこのIARCの結論を審議する委員会が厚労省でもたれ、その結果はすべてのじん肺の肺がんを業務上として認めるということになったのである。私が10年前に出した論文のそれと同じ結論が、10年たって、やっと政府委員会の結論となったのだ。なぜ10年もかかったとはもう言うまい。すなおにこの結論に辿り着いたことを、被災者とともに喜びたいと思う。ただ、一言苦言を呈したいのは、私たちの異議申し立てがあったから、かくも時間がかかったのか、と思わざるをえないことだ。というのは、この10年の間に、木材粉塵と上気道がんの関連を、すんなり認めるということを労働省はしている。なぜ木材粉塵の発がん性を認め、シリカは認めなかったのか。シリカについてはお上に盾突いた不逞の輩がいたからなのか。異議申し立て、すなわち裁判があったら、その訴訟は当然国の誤ちを指弾するものである。対抗上被告(国)は反論する権利があるが、その権利が必要以上に乱用されたのではないかと考えざるを得ないのだ。学者などは、いろんな考えがあるから、当然我々の主張に対して反対を叫ぶ学者もいるだろう。そういう学者ばかり登用して、政策に反映するようなことをするから歪んだ構造になるのである。

ところが最近の情報公開によって明らかになったことは、労働省が委託研究としてじん肺と肺がんの関連について集めていた情報には、極端な反対論だけでなく、我々と同等の意見もあったことだ。このことをこれまで労働省は一切隠してきた。そして今回の認定拡大の答申を行った委員会のメンバーは、実は彼らが多く含まれていたのである。逆の意味で恣意的な人選がされていたと言わざるをえない。この人選如何で、国は望む結論を得ることができるという仕掛けになるのだ。

国は、目先の裁判に勝つことを目的化せずに、最初から公平な人選で、科学的に検討をしておけば、今回の結論はもっと早く出せたはずである。行政に望むのは、情報公開だけでなく、公平な運用というべきである。この問題の先駆けとなった野中さんの遺族の救済は、なされていない。しかし野中さんの遺族の訴えがあったからこそ、永い道のりの末、ここに辿り着いたのである。このことを忘れずにいたい。

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