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 2004年2月16日 カルロ忌を前にして

昨年9月に、厚生労働科学研究費が正式に決定して、新型カニューレの試作、自動吸引装置のロジックの開発と改良などと、弱小一医療機関の臨床医としては手にあまる仕事をさせられてきて(一応このあたりの事情は、Dr Makotyの近況報告に記しておきましたが)、気がついたらこのコラム、ずーっとサボりっぱなしでした。五ヶ月もサボると自分のページを見るのもつらくなるようなもので、困っておりました。世間はイラクに自衛隊派遣を行い、北朝鮮を見る目はますます敵意に満ち、SARSの再燃の可能性はくすぶり、鳥インフルエンザまでその脅威を深めております。こういう状況とは無縁に、地味な臨床と、機器の開発にのめりこんだ仕事をしておりますと、昔のように状況にコメントするという元気が出てまいりません。そういえば、昨年のSARS3月中旬から報道が始まり、その後の数ヶ月堰を切ったような報道の嵐となりました。冗談ではなく、このとき我々呼吸器科医は、来年まで生き延びられるのかという不安にかられたものです。しかしその2週間前、Drカルロ・ウルバーニはベトナムの地で孤軍奮闘していたわけで、昨日のNHKの特集を見て、あらためて彼の闘いに、医師として敬意を持つとともに、自分が罹患したという疑念を持ちながらタイに逃れたことに罪悪感を持って意識を失っていったのであろうことに人としての共感も感じました。おそらく自分の手で支えなければ世界が崩れるという危機感のもとでの必死の作業だったのだろうと思います。その必死さがあだとなり、自ら感染するという結果を得ることになり、後になってみれば短い闘いで、その結果も個人の命の消滅という悲惨なものでしたが、単にベトナムだけでなく、世界が彼に救われたと言っても過言ではないと思います。初動の遅れた中国は、広東州に広がっただけでなく、首都北京にも流行し、その結果多くの患者と、彼らの診療にあたった多くの医師、看護師まで感染死するという結果となりました。しかし、それもそこで食い止められたのです。あの当時、医師の仲間に日本で流行ったらどうする?と聞くと、ほとぼりが冷めるまで森の奥にこもろう、などというジョークが話されたりしました。実際に台湾などでは森の奥にこもったDrもいたようですが、多くのDrNrが踏みとどまり、犠牲者を出しながらもついに終息宣言を出せるまでに押さえ込めたのです。SARSは、決して一般人が罹患する可能性が高い疾患ではありませんでした。しかし、呼吸器を診療する部門に対しては、極めて特異度が高く感染するという厄介な疾患でした。顔も知らない多くの彼の国の同業者が、診療に苦闘し、自ら罹患を知り、絶望しながら亡くなっていったのあろうと思います。あのときもしわが国にSARSの流行が起こっていたら、我々は今があったのでしょうか。私たちに彼らの示した実効と勇気が奮えたでしょうか。

 未来を知れないということは幸福です。この後どんな地獄の釜が開いているのか私たちは知ることはありません。しかし、地獄の釜を開くことに無頓着な行動や、政治、考えは慎むべきではないかと考えます。そして地獄の釜が開きかけたとき、私たちはカルロの勇気と行動を思い出さねばならないでしょう。