2006年7月10日 医者の息子たちよ 悲惨な事件が起きた。奈良県田原本町で起こった医師一家での放火事件である。医師である父親の過大な期待が引き起こした悲しい事件と解釈されている。私が、この事件にすくなからぬ因縁を感じるのは、亡くなられた女医が大学の同窓であること、夫の医師が勤めていたのが私の三重のいなかの本家筋にあたることである。私の祖父は田舎で百姓をしていたのだが、祖父の母の実家である隣の家から東京の医学校に進ませてもらったのだ。耳鼻科医をしていた祖父は終戦後ほど亡くなった。呼吸器疾患であったようだが詳しくはわからない。父はそのころ京大の医学生。まだ医者になっていなかったので出征は免れたが、父の姉二人の夫はいずれも医師であったが、出征し、軍医として一人はニューギニアで、もう一人はレイテで戦死あるいは戦病死した。戦後の混乱期を夫も亡くした祖母は、農業と林業でなんとか3家族を養い、頑張りぬいた。この叔母の一人から、医者になったらいかん。日本は15年おきに戦争をするから、医者になったら死ぬことになると、子供のころ言われた記憶が私に残る。私の知る祖母は腰が深く曲がり、しわの深いまさに農家のおばあちゃんであった。母が亡くなったとき、家のなかからこの祖母の手記がみつかり、我が家の医師としてのルーツが見えた。祖父は18歳(数えであろうか)のとき、田舎で農作業をしていた。そこを通りかかった行商人から、そんな棒みたいなものを振り回さず、大叔父さんに頼んで医者になりなさい、と勧めてくれたというのだ。もちろん祖母はそれを見たわけではなく、祖父から聞いたのだろう。田舎の小学校しか出ていなかった祖父は、東京に出て日本医学校(現在の日本医科大)を卒業したようである。そして大叔父の病院の耳鼻科医となった。祖母は奈良女子師範に通っていた文学少女であったが、ある日実家から籠が来て、乗って帰ると自分の結婚式だったと書いている。時代を感じる。というわけで私は医者の三代目にあたる。なぜ、医師の息子は医者を目指すのか。あるいは医師の親は息子に医者になるよう望むのか。自分を振り返り、なぜ自分は医師を目指すことになったのか考えてみると、別に親から強制されたわけではない。四国の県立病院の病理部長をしていた父は、そのころはまだ臨床検査も自動化されてなく、残業につぐ残業のうえ、深夜・休日の解剖、血液適合の緊急呼び出しなどで、ほとんど一緒に晩飯を食べた覚えがないほどだ。医者は大変だからなにも医者にならなくてもいい、とよく父は言っていた。ところが息子の方は、そうはいっても医者とは特別な職業なのである。息子としてはまず、医者になるか、ならないかという選択肢があるのだ。この辺が一般の方々との最大の違いであろう。医学部に進学可能な学力のある一般の生徒である場合、医学部に進むというのは、等質ないくつかの選択の一つにすぎない。しかし、医者の息子は、まず医者になるかどうか、という選択肢が先行しているのだ。もちろんならない場合もある。私の弟は、理科系にさえ進まなかった。医者の一家からみると文学部という実にとんでもない学部に進んだ。医者の家からすれば落ちこぼれそのものである。もちろん品位高いわが両親はそのようなそぶりを全く示すことはなかった。弟は、現在、某大学の西洋史の教授として副学部長を兼任し、充実した仕事をしている。その優雅な姿を見ると、休日もなく週70時間以上働いている自分が悲しくなったりする。彼は医師という選択枝を経てないように見えるが、実は最初に医者にならないという選択肢をしているといえるのだ。その決意が高校での文科系の選択なのである。 |