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2006年10月2日 勇ましさか、浅ましさか 

憲法改正、愛国心、嫌韓、嫌中などなど最近の時代状況を表す言葉に通じるある思想がある。近隣諸国に気を使ってきた戦後日本の平和外交は、屈辱的な自虐外交という。そして、言うべきことを言う、それが正しい外交姿勢だという。こういう考え方は、私が青年期のころは、それこそ極右そのものの考え方であった。確かに在日の方々に、日本人は負い目があるのだからと、必要以上に気を使ったりした経験や感情を持っている方も、私の年代以上ならいると思う。まだ戦争の記憶が生々しかった時代には、日本人の大多数にそのような漠然とした原罪感があったため、とりわけ近隣諸国に対して腰を低くし、またその結果経済成長を遂げて、豊かになったのだからそれでいいだろうという感覚だったと思うが、実はこれは結構ストレスを溜める状況であったのだと、今よくわかる。数年前から、公的な論評においてさえ、韓国や中国に対して「何度謝ればすむのか」という批判が大きくなってきた。とりわけ中国国家主席であった江沢民来日の際に、かなり威圧的な言動を残したものだから、それをきっかけに抑えてきた感情が決壊したようにも感じる。感情を抑える、というのはつらい態度である。それに対して、すき放題に怒鳴り散らすというのは、気楽なものだ。このゆがんだ昂揚感を煽っているのが、昨今のニューライトの方々である。これらの議員には若手が多いという。戦後生まれの自分たちは、戦争そのものに責任はない、という反発からか、いつまでも謝罪し続けなければならない近隣国との関係に切れた、ということだろうか。確かに過去の日本は、中国や韓国に被害はもたらした。しかしそれは全ての占領地からの撤退と原爆を含めた国土の焼失という事象によって責任をその時点でとらされたと認識するのだ。しかるに中国や韓国はどうか。日本が戦後の世界を真面目に生きてきたときに、たとえば中国は文化大革命でいったい何万人殺したのか。あるいは、韓国は独裁政治で何人の学生や政敵を殺したのか。そしてそのことに対して真摯に向き合って来たのか、という現在の政権や国の在り様に対する批判が根底にある。その程度のあなたちに、戦後日本人である自分たちが批判される謂れはない、ということだろう。しかし、この見方は、国内問題と外交を混同しているとの謗りを免れない。なぜなら文化大革命によってわが国の誰かが殺されたわけではないからである。また、韓国の独裁政権が、確かに金大中を日本から拉致したが、日本人を拉致したり殺したわけではないのである。それに対し、日本は戦争によって、直接的に多くのかの国の人々を殺してきた。これが同一面での外交上の評価対象になるはずはない。文化大革命という政治闘争が、大衆を巻き込み、多くの被害を出したのは事実である。しかしそれを政治の問題として、政権を批判できる真の権利を有するのは、中国の人々だけなのだ。これが国内自決の権利というものである。私たちは他国の多くの人を殺したが(もちろん自国民も無謀な戦争方針で大量に殺した)、彼らは自国の人を殺しただけなのだ。したがって外交上は、日本は他国に謝罪しなければならず、他国は日本に謝罪する必要は有しない。外交関係上、相手に倫理性が欠けていても、残念ながら対等ではないのだ。例外は、北朝鮮であろう。だからあの独裁者、金正日は拉致を形式上は謝罪したのである。しかしそれを見て、日本人は謝罪が十分と思っていない。同じように他国もそのように日本を許すことがないのだ。彼らにとっていえば、謝罪するということは、常に謝罪している態度を取り続けよ、という要求なのである。これが日本人の反発を招くのは容易に理解できる。しかし、対等ではない、という状況をきちんと認識することができれば、他国を気遣った付き合いをすることは当然である。いつまでも謝罪し続けるのが嫌であるなら、むしろそのような付き合いをすべきである。謝罪という態度を常に保持するというのは、個人の感情レベルにするとかなり苦しいものだ。そのことを理解し、相手を気遣う態度を持つことこそ、大人の態度であり、紳士の姿勢ではないか。戦後民主主義社会という規定は、このような態度を持つことを日本に求めてきた。今、戦後民主主義の窮屈さに反発し、これを否定しようとして、日本は、大人でなく、紳士であることまで否定し、ほとんどヤクザかチンピラ同然の精神に堕ちようとしていることに気づかねばならない。この精神姿勢の変化は、国内的にも歪をもたらしている。オレオレ詐欺に始まる大規模な詐欺が横行し、まるで犯罪が第四次産業のようになってしまった。格差は当たり前とうそぶき、大金持ちを優遇し、弱者が貧窮するのを止めようとしない。あきらかに成熟とは異なる道程を、今の日本は歩んでいるのだ。そもそも弱者を守るのが共同体の目的の一つのはずだ。人類考古学の世界では、初期のホモサピエンスの遺跡から、高齢の身体障害者の遺骨が発見され、それが共同体意識の出現と判断されたのである。これこそが文化・文明の萌芽であろうと。しかし、それをしないというのは、日本が共同体であることを捨て、弱肉強食の無頼の荒野にすることに他ならない。戦後民主主義社会のなかで国民が豊かになることにより、経済が拡大し、日本は先進国の一員となれた。しかし、格差拡大という現状は、再び日本を途上国レベルの方向に退行させることになるのではないか。一部の者と、巨大企業のみ豊かになり、一般国民は明日の希望を持てない生活を強いることが、はたして発展という名に値するのだろうか。

侵略相手国に対し、過去の侵略を謝罪することで、戦後のわが国の在り様を卑屈になる必要はない。それはあくまで終戦までの日本の態度を謝罪することだからだ。戦後の歩みの正しさは大いに自負すればよい。しかし、声高に他国の在り様をとりあげ、非難するのは別問題である。肩が触れたと喧嘩をうるような態度が、勇ましいのか、浅ましいのか、ということを考えればよいのだ。相手が嫌がることをことさら挑発的に行うことは同じく勇ましいのか、浅ましいのか、答えは自明である。

長い小泉時代がやっと終わり、安倍政権が誕生した。この内閣と新首相の考えが、上に書いたような浅ましいものでないことを祈りたい。もしそうなら、それは決して、美しく、はない。