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2008年3月8日 捕鯨をやめよう

南氷洋でのシーシェパードという反捕鯨団体の、わが国の調査捕鯨船に対する暴力的抗議行動が報道されている。それに対し日本政府は強く抗議するという声明を発表しただけでなく、現場では警告弾を打ち返すという喧嘩にエスカレートしている。それをみて意趣返しができたとカタルシスを感じる方々もいるだろう。しかし、この問題は、実は靖国と同じではないかという思いがする。靖国はこころの問題であり、近隣諸国の避難こそ不当であるという態度を、小泉、安倍政権がとってきた。その結果日本周辺の、嫌日感情は見事なほど吹き上がり、結局外交が立ち行かなくなり、福田政権によって修正せざるを得なかった。人のいやがることをわざわざする必要はないでしょ、という普通の言葉で。

私たちの世代は、鯨肉を食べてきた。小学校の給食の思い出に、鯨の竜田揚げが登場する。松浦漬となると鯨の軟骨が入ったものであるし、これらをもって鯨食は日本人の固有の伝統などという主張もある。靖国などでは左あるいはリベラリズムの言説を持つ美味しんぼでも、鯨については、極端に排外的な論説となる。そういう鯨とはいったい何であろうか。

まず、現在の食生活において鯨が必需品かといえば、ごく一部のマニア以外にはまったく当てはまらないであろう。私も鯨といえば、一年前にいただいた鯨のベーコンが最後である。ときどき近くのスーパーに赤黒い鯨肉が置いてあるのを見るが、焼くとパサパサして食感がいいものではないことを知っている。子供のころの鯨の竜田揚げ自体、美味しいものではなかったのだから。それを喜ぶのは単なる懐古趣味にすぎない。

欧米諸国から反感を受けているのは、わが国の調査捕鯨というやつである。調査のために、年間1200頭を捕殺しているという。これだけ国際的な批判を受けながら行っているのであるから、さぞかし立派な調査、研究が行われているのだろうと思う。しかし、その成果が明らかにされ、それが素晴しいという評価が出ているという話を全く聞かないのだ。ネットで調べてみても、単なる実態調査以上のものが出ていると思えない。

例えば系統調査とうのが大きな目的だという。ごく少数の頭数の調査では、母集団が推定できないなどと言われている。しかし系統を調べるのであれば、皮膚の少量のサンプルだけでよいというのが昨今のDNA検査の水準であろう。捕殺しないのであれば、もっと大きな数を堂々とサンプル取りすることが可能だ。そういう反論がくると、いや、何を食べているかとか、年齢などは殺してみなければわからない、と根拠を変える。そんなことならそれこそ少数のサンプルでいいはずである。1200頭も殺す根拠になどならないのは自明である。こういう批判に対しては、何十万頭もいるうちのわずかな数にすぎないと言い張る。研究目的ではなく商業捕鯨だと言われるゆえんである。根拠が不確かだからだ。調査で説得できないと思うと、今度は、海洋資源を増えすぎた鯨が減らすのを防ぐためだとか、シロナガスクジラの繁殖を増えすぎたミンク鯨が抑えているから間引かなければならないなどと言い出す。神にでもなったかのような議論である。余計なお世話なのである。まさにそれこそ自然にまかせればいいことであって、自然や神に代わって、行政の外郭団体ごときがするべき役廻りではない。ミンククジラもシロナガスクジラも現生人類より永い年月を生き抜いてきた種族である。そのようなおせっかいをせずとも自然に任せていてよいのだ。もし自然にまかせてはいけないことがあるとすれば、絶滅の危機を迎えた生物の保護であって、現状のような捕殺ではない。こうなると今度は魚類資源を鯨が食うからだと言い出す。それなら何十万頭のうちの1200頭では意味がないではないか。半分くらい殺して殺しつくさねば意味がない。つまり小手先の反論返しをしているばかりだから、しっかりした根拠のある議論になっていないのだ。これでは反捕鯨派に説得力をもつわけがない。

調査捕鯨は、鯨資源の保存のために必要なのだという論点も出されている。しかし、たとえそうであっても捕殺しないとわからないことを、世界が日本に一義的に委任したわけではない。勝手に日本が名乗り上げているだけである。

調査捕鯨というからには、研究目的とその成果がきちんと国民と世界に発信されねばならない。1200頭を殺して得た成果とはこんなものなのだと誇れるものをである。それが本当になされているか?今の政府がやっていることは、国民に対するプロパガンダこそあれ、そのような科学的成果を示された覚えはない。しかも最近は、反対運動が強化あるいは過激化されるに応じて、プロパガンダがナショナリズムに結びつけられている。こうなると鯨は靖国になってしまうのだ。

この問題を考えるときに忘れてはならないことは、オーストラリアなどホエールウオッチングを楽しむ国や地域が増えるにしたがい、鯨はたんなる動物ではなく、癒しの記号となったことである。わが国の捕鯨がかくも反感と嫌悪を買うのは、この癒し記号を殺戮しているからである。たとえば、公園に出没するネズミを捕殺することは受け入れられるが、同じげっ歯類であるリスを捕殺すればとたんに非難されるだろう。こういうことを感情論として捕鯨派は批判するが、それは違う。捕鯨が、癒し記号を抹殺するという、人のメンタリティーに対する攻撃になっているからである。誰が飼っているわけでもない野生のリスだから、皆が愛していようが俺が殺していい、という論理が市民生活のなかで受け入れられないように、癒し記号となった鯨を殺すという行為は、人のメンタリティーに対する野蛮な攻撃と認識されるのである。捕鯨とは、日本人が、武装してハイドパークの野リスを殺しまわっているという姿に映っていることを自覚すべきなのである。日本人は基本的に他国人のメンタリティーに対して鈍感である。靖国しかり、従軍慰安婦しかり、買春しかりである。そしてそれらのクレームに対して嫌悪感を放つことがナショナリズムの発露のように思ってしまう。

他人のいやがることをわざわざ他人の庭先に行って実行する必要などないではないか。すでに鯨食はわが国の文化でもなく、ましてわが国が自然に代わる不遜な主張をするだけの偉大な存在などでもはなからない。意味のない行為を世界の反感と嫌悪に反して行うというのは、実は、日本鯨類研究所という水産庁の外郭団体の延命を自己目的としていることに過ぎないことを認識すべきではないか。