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2008年6月30日 延命治療とは何か

実は少々迷っている。例の後期高齢者医療制度についての私の考えが定まらないのである。いま、この制度に対し、多くの場所や位置からの批判が大きい。野党ばかりか与党からも反対が続出しているという。なぜなら、民主党がこの批判を組織化することに成功し、補欠選挙に勝利し、そのことが自民党の焦りも生み出しているからだ。批判されている点はおおむね以下のいくつかの事項である。まず、@年金から天引きされること。Aこれまで負担のなかった社会保険加入者の扶養家族の地位にあった人が、その地位を奪われること。B医療内容としては、主治医を一人に限定するようすすめる仕組みと、C後期高齢者終末期相談支援料がつくられ、延命治療についての考えを明確にさせておくこと、などであろうか。@Aのシステムの問題とされているのは、負担をどうするのかという問題である。負担といえば、ほとんど崩壊直前にある国民健康保険との比較をしておいたほうがよい。国保は、被雇用者の社保と異なり、天引きされるような原資がない。したがって、国保税として徴収されるのであるが、これの徴収率が低下しており、もはや保険としての呈をなしていないという批判さえある。事実ワーキングプアといわれる階層や、国民年金しか収入がない状態で、これを払い続けるというのは不可能に近い。さらに一度支払いから脱落すると、再度加入するためには不足分も払い込まねばならず、その壁は、脱落者には日ごとに大きくなるばかりとなり、なかなか復帰しえなくなる。このような状況を知れば、自由意志による支払いを前提とすると、とくに貧困層ほど脱落しやすく、その結果、保険が立ち行かなくなるのは目に見えているわけで、年金天引きという仕組みはそれなりによく考えられたものと思える。しかも無条件強制的に加入されるわけであるから、国保滞納によって無保険に陥っていたこの年代の方々に対しては、過去の滞納をチャラにしてくれる大いなる救済策でもあるのだ。これは実に平成の徳政令といってもよいのではないか。一定の層に対して負担増があるという議論は、この徳政令という江戸時代以来というべき大盤振る舞いのインパクトの前には霞んでしまうというものである。このことを立案者側はもっと知ってほしいと宣伝したい思いだろうが、モラルハザードを公認することになるので、言いたくても言えないのであろう。さて、医療内容の面からは、この制度に移行したために受けられなくなる医療があるというものでもない。しかし、安上がりにしたいという政策立案者の心情と、延命治療をさせないよう誘導したいという倫理観の欠徐が、悪意をむき出しにされたという印象を対象者に与えてしまい、「年よりは死ねというのか」との反感を産んだことが問題であった。この延命治療の問題は、難病医療のなかでこれまで議論されてきた問題である。人工呼吸器装着を延命医療ととらえ、それを選択するかどうかを、その時期より前に患者に決定させる。それを事前指示書という。確かに厳しい人工呼吸器との生が決して肯定的なイメージを伴うものではないため、多くの患者がそれを受け入れることをためらう。人間とは、現実には強いが、想像には弱い生き物である。そんな風な生き方は望ましくない、とは誰しも思う。それはそれで当然である。それを聞き出す医療者も、そういう思いを持ったまま患者に聞くことになる。その結果として、人工呼吸器をつけないという結論が出るのはある意味当然である。しかも、まだその段階に達していない患者に尋ねる場合にはとくにそうである。この問題を少し掘り下げてみたい。まず、この延命治療というタームについて検討してみたい。私たちが今日まで生きてきて、明日も生きることを延命などと言わない。かつての吉田拓郎の慧眼どうり、「私は今日まで生きてきました。そして私は思っています。明日からもこうして生きていくだろうと」である。これは何が連続しているから、延命ではないのだろうか。それは、私という人格であり、意識が連続しているから、ではないのか。したがって、延命というタームが使えるのは、今日まで連続してきた意識や見当識が、明日から永遠に失われることが確実な状態に限定して使われねばならないと思う。難病において、人工呼吸器の装着というのは、そのことにより人格が消失するわけでもなく、今日までの人格と意識が、明日も継続するだけのことであって、これは延命などではないと、タームの使い方を明確にすべきである。マスコミでの安易な使い方にこれまで違和感を持ってきたが、是非この機会に改めてほしいものである。単に医療行為がなければ生き延びられない程度のことを延命というのであれば、医療自体の否定ということにしかならない。逆に、「後期高齢者」に限定して導入されようとしてきた後期高齢者終末期相談支援料という設定は、尊厳死の強要という批判もあるが、人格と意識の永続的な喪失を条件にしたうえで、後期高齢者に限らず全国民を対象に議論されるべき内容なのではないか。国民は、性、年齢を問わず、法の元に平等であるはずなのである。それを、どの段階での議論なのか明確にしないまま、入院して高額の医療費を使われるよりは、もういい年なんだから在宅のまま死んでくれたら、みたいな下司の勘ぐりをされるような提出のされかたをしたので「姥捨て山」批判が巻き起こってしまったのである。まだ必要な、受けるべき医療があるにもかかわらず、本人の誤解によりそれを受ける権利が制限されるとしたら、これは批判の対象になるのはあたりまえである。これまで臓器移植の大議論で出された結論のように、脳死状態になったときには医療の制限を行うというようにすれば問題はないはずであるし、さらに拡大して、人格や意識の喪失を伴う植物状態に移行するときの問題として、終末期を設定した議論を立てればよかったのではないかと思う。植物状態の患者に医療費を吸い取られたくない厚労省としては、このあたりをより明確にしておくべきだった。いや、まさか、医療を必要とする人が医療を受けないことを望んだりはしてないですよね、厚労省様。まさか、、、本当に、いやそんなことはないはずです・・・よね。