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2011年1月29日 インターフェイスとしてのアクセルを

新たな年がやってきた。昨年は、自動吸引システムの公開と、関連医療器具の承認によって、10年来待ちに待った事態を招来しえた。現場に持ち込んで新たにわかった問題も出てきた。今年は熟成の一年としたい。よりよい自動吸引の発展のために。昨年、そのような事態にあって多忙を極め、このコラムも8月の自動吸引の実用化のお知らせ以降、すっかり止まってしまっていた。まさかこのコラムを心待ちにされている方はいないとは思うが、少し心苦しく思っておりました。今年はぼちぼち書いていきます。そこで新年最初のコラムは、クルマ関連です。なに、医療じゃないのか、という向きもあろうかと思いますが、なかなか重い話題まで掴む元気はまだ回復していないということでご勘弁を。

 事故には、避けられるものがある。たとえば狭い道を多くの車が走る街道があるとすれば、そこにバイパスを設置することによって多くのあったはずの事故が発生しなくなっている。実際に被害がでないわけであるから、その効果は見落とされがちであるが、それは抜本的な対策が取られたと評価すべきなのである。そのような大きなインフラによって克服されるものもあるだろう。しかし現在という到達点において、先進技術で克服される事故はそういうこと以外にもきっとたくさんある。たとえば昨今よく聞くアクセルとブレーキの踏み間違いなどは、あるロジックを組み込めば簡単に防止できる。思いっきりアクセルを踏まれたときはそれはブレーキと車側が判断すればよいのである。人はかならず間違えるし、車の力は人では制御できない。さらにアクセルとブレーキが隣にあるという構造自体が危険なのだから(例えばオートバイはアクセルとブレーキを絶対に間違えない。それぞれの構造物が操作法を含めて似通ってないからだ)、間違えて踏まれるということを前提に設計しなければ本当はいけないはずだ。本当は、アクセルは右、ブレーキは左というように左右に振り分けられていたらよかったのだが、昔はクラッチというのが一般的で、こいつが左にあったため、アクセルもブレーキも利き足であることの多い、右足の仕事になってしまったのだ。さて、アクセルはだいたいゆっくり踏み増すのが普通である。一気に踏んでも黒煙あげたり、タイヤがスピンするだけで加速を却って失う。だから人はそういうことをよほどのガキでもないかぎりしたりはしない。一気に踏みおろすという行為がアクセルペダルに伝わった場合、それは一気の全力加速をドライバーが要求しているものではないのだ。そのような踏み方が行われた場合は、ブレーキと間違えた、とクルマは理解すべきなのだ。以前の機械式アクセルであればその判定は困難であっただろう。しかし現在アクセルは一つのインターフェイスである。そのような判断を行うロジックを組み込むことはたいして困難ではないはずである。高齢化というものは無情なものである。そうありたくないと思っていても、物忘れはするし、判断力も落ちてしまう。とくにとっさの判断力の低下は、高齢者の多くも運転をしていることから考えれば、今後の大きな事故原因となるに違いない。であれば、それへの対策をしておく必要があるということになる。アクセルへの急激な踏み込み、これはブレーキだと車が判断する。そういうロジックを組み込んでおくことで、未来の多くの事故を未然に防げる。そういう予防の取り組みを進めてほしいと思う。アクセルをブレーキと間違える怖さというものは、ブレーキをアクセルと間違える事態より比べ物にならない大きさであることを社会が理解すればよいのだ。基本はフェイルセーフである。

2/1追記
痛ましいコースター事故が東京で起こった。以前太っていたときこの手の乗り物に乗って、胸が押されてとても苦しい目にあったことがあるので他人事ではない。こういうひとつ間違えると命にかかわるという遊具で、なぜフェイルセーフの対策がなされていないのであろう。どうも乗り手の身体が巨大でバーが閉まらなかったということのようであるが、その確認をバイトにさせるなどということは管理者として怖くなかったのだろうか。最近は自家用車でもシートベルトしないと車からアラームランプ点けて怒られるではないか。全てのバーが閉まらないと、メインの機器の通電がなされないというように設計することはとても簡単だと思えるし、バーを閉めずに走らせたときの恐ろしさも簡単に想像できるわけだから、これがなされていないというのはちょっと私には想像ができない。