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2004年8月8日 民度が低いのは

中国で行われたサッカーアジアカップでの、中国側サポーターの反日行動に嫌悪感が集まっている。わが国のマスコミあげて中国サポーターが、憎悪むき出しで日本に対峙することを連日報道し、多くの評論家などに中国は民度が低いと罵っている。

はたしてそうだろうか。

今回多くの反日行動がありながら、暴動に進展し、日本人を襲ったり、日本企業を焼き討ちしたりする事態にはならなかった。これはそれを抑えたか、騒いでいた人々も暴動に進展させるようにはエキサイトしていなかったということだ。これは民度が低いということになるのか。

中国政府は、暴動にしてはならないとおそらく決意もし、また日本人サポーターが襲われるような事態は絶対に現出してはならないと考えたと思う。そしてその結果は、充分に果たされた。ごく一部の大使館公用車の窓が破壊されたというおまけはついたが。今回の事態のなかで、中国政府およびマスコミ機関は、少なくとも民衆に対し、抑制的に動いた。反日そのものはおそらく中国政府も共有する部分があるだろうが、サッカーという競技のなかでそれが顕在化するのは恥ずかしいことであるという認識は持てていたのだと思う。日本は、そのことに対し、あるいはその努力に対し、感謝をしたのか。一部の公用車の窓の破壊について抗議したらしいが、明らかな感謝の意を示したということは少なくとも報道を見る限りない。偉そうに「評価するが」とスポークスマンが発言したくらいであろう。

民衆のなかに、眉をひそめるような行動、発言、表現、示威を行う者がいるのは世界共通である。いないとしたら、よほど抑圧された異常な世界である。中国のなかに少なからず反日の民衆はおり、それはことあるごとに日本に対し嫌悪感をむき出しにしてくる。そしてそれが共感を集めたとき大きな力となって思わぬ事態を招く可能性がある。自国の民衆が、感情的な反応を示そうとしたとき、それを冷やし、不測の事態に陥らぬようにする責任は、その国そのものにある。関東大震災直後の混乱のなかで多くの朝鮮人が殺戮されたことは、わが国の民衆の恥であるとともに、日本国の恥でもある。民衆の感情的な反応を、あおり、燃え上がらせるという行動は、卑劣な行為なのである。そして中国政府と中国のマスコミは、そのような行動をとったわけではなかった。では、日本はどうか。中国国民の民度が低いと、多くのマスコミがそれこそ朝日から読売まで横一線で罵るのというのはどう評価したらよいのか。ある国の民度を測るというのであれば、どういう集団を見て、それを測るかということが大事だ。であるからわが国の世論調査であっても無作為に何千人かを調査し、国民全体の性向を推定するという方法をとるのである。日本と中国の対戦が組まれたその日の観客や、競技場のまわりで騒いでいた集団が、中国を代表する集団ということになるのか。確かにサッカーに限らず国対国の競技となると、ナショナリズムが燃え上がりやすい。そしてそこに意図して騒乱をもたらそうという部分が介入すれば容易に火がつくであろう。しかし所詮そのような無理やりの火付けでは大火になったりはしないものだ。一晩過ぎたらただのお祭りであったことに気付くはずである。そのような特殊な集団の行動をみて、中国の民衆の民度を測るというのは正しい態度ではないことは明らかであろう。サッカーの騒乱ということについて言えば、例えばフーリガンはイギリスが元祖である。ではイギリスは民度が低いのか。先年、日本でワールドカップを開催したとき、このフーリガン対策は重要な警備事項であった。そのときにわが国の政治家、マスコミはイギリスは世界の迷惑、民度が低いと主張したか。

つまり、あおっているのはわが国の政府とマスコミなのだ。最近のわが国の政府およびマスコミの民度の低さは目を覆うばかりの状況である。イラクで人質にされた3人に対し、ネット世界は3馬鹿と執拗にキャンペーンを張り、ほとんどそれと同じ意識で小泉以下の政治家は嫌がらせを口にした。ネットも民衆の一部の感情であるとすれば、政府、マスコミはそのような感情論に対し、抑制的に対応することこそ正しい方法論である。そのあまりの恥ずかしい姿にクレームをつけたのが、米国のパウエル国務長官であったことを恥じねばならないのだ。その意味から言えば、今回の問題において、正しい対応をしたのが、中国政府と中国のマスコミであって、悲しいことに正しくない対応すなわちあおり行為を行ったのがわが国の政府とマスコミであることに気付くべきである。わが国こそ民度が低い。まあ政府やマスコミがレベルが低いからといって民度が低いというのはおかしいという批判があれば、それは認めるが。