2005年3月25日 尊厳死と嘱託殺人 半落ちという邦画を見た。テレビで放映されたからだ。ひどいと思った。単にストーリーがいいかげんとかいうレベルをこえて、実に出鱈目な映画だと思った。あまりの出鱈目ぶりに驚いて、長男といろいろ議論できたことは、もうすぐ就職して家を出る彼との接点として良かったとは言えるが。 何をひどいとか、出鱈目とか言っているかというと、痴呆の理解が全くないからだ。譫妄と痴呆の区別が全くついていない。アルツハイマー病という言葉が出るが、そうなったという妻の態度は、アルツハイマー病の姿とは全く違う。 まず、アルツハイマー病の妻という設定がおかしい。この妻は、息子が急性白血病でドナーが見つからず亡くなったことからおかしくなったという伏線があるが、それはアルツハイマー病ではない。息子が死んだことを理解できず、息子の帰りを待つという姿も、アルツハイマー病ではない。これは心因反応による譫妄そのものである。少なくとも映画にあらわされた妻の姿は、人格が荒廃した様子もなく、単に譫妄状態を示しているにすぎなかった。譫妄状態の妻が、殺してくれと懇願しても、その通りに殺す夫がどの世界にいる。もしあるとしたら、殺したいほど憎んでいた者だけだ。映画の主人公は、そのような裏事情を示していたわけではない。あれば、別の映画になってしまうが。譫妄状態というのは正常な意識状態ではない。そのような状態で殺せと言われても、それは正常な意識からの要請ではないことは自明だ。従って、嘱託殺人にはなりえない。このことは、妻が真にアルツハイマー病であったとしても結論は同じである。本人が死にたいということに合理的根拠があり、しかし自ら死ねない場合のみ、嘱託殺人が成立するはずであるから、例えて言えば、酔っ払いの女が彼氏にふられて死にたいと言ったので殺してやったなどというのが嘱託殺人になろうはずがないということ同じである。 わが国のALS関連においても、最近嘱託殺人というテーマが出現した。しかし、検察は殺人罪で立件し、弁護側が嘱託殺人を主張し、裁判所は嘱託殺人と認めた。これは正しい姿であると私は思う。最重症のALSという状態にあって、死にたいという願望に根拠はある。しかし本人自ら死ぬこともできないというのも事実だ。ではその願望を達成するために、他人の力を借りねばならないことも自明である。死にたいという願望が真実であれば、これは嘱託殺人であろう。しかし安易に嘱託殺人を認めてはならず、検察が殺人として立件したことも合理性がある。人を殺すということの重さを確認するためにも、このような事態は、きちんと法廷で明らかにし、殺人であるのか、嘱託殺人であるのか分析することが必要だと思うからだ。当事者以外で、その重さを感じない人は、そのような人は死んだ方がいいという思い込みに囚われているにすぎない。死にたいと訴える難病患者に安易に死を与えてよいことにはならない。まして、それを医師に委ねるというのは大変な誤謬なのである。なぜか。 わが国では、医療を止めてよいという状態について、先年、脳死と決めた。私はこのことに異議はない。むしろ現場の医療のなかでは、厳密にそのような判定を経ることもなく、DNR(蘇生しないとりきめ)が常態化している。そしてそれはそれなりの根拠もある。しかし、この脳死議論のなかで、脳死と植物状態は違うことが社会の一般的認識(不充分であるが)となり、植物状態に死を与えてはならない、という倫理的束縛も同時に発生したと私は思っている。このように、医療が、死を与えることが可能であるのは、実に狭い領域だけとわが国は既定したのである。しかし、欧米では違う。オランダなどでは、難病だけでなく、うつ病などで生きる意欲を失った、単なる自殺願望にまで安楽死を認める社会となり、また欧米全般で、ALSは人工呼吸器移行もすることなく「ハッピーに」死なせているという。ALSの分野では、まさに安楽死が横行していると言ってよい。しかし、先日の米国発の報道には驚いた。事故により脳障害を来たした女性への栄養補給の停止を認めた裁判所の決定に対し、州議会、合衆国議会、果ては大統領までが安楽死反対の法案を通したというのである。背景は、キリスト教右派の考えがあるという。ここがわからないところだ。キリスト教が背景にある欧米で、なぜ安楽死が横行するのか。にもかかわらず、このようなトピックス的事態に対し、教条的な反対が巻き起こるのか。かの地では、ALSは社会の認識の外にあるのかと憂えざるをえない。 |