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2005年5月17日 尊厳死と自死

先日、「海を飛ぶ夢」という映画を見た。尊厳死を題材にしたというスペイン映画である。美しい映像に、表情豊かな俳優や女優たちの真面目な演技に引き込まれた。主人公のラモンは、20代のとき海に考えごとをしながら飛び込んで、海底に激突し、頚椎損傷を被り四肢麻痺となった。以後28年間兄夫婦の介護を受けながら自宅で暮らしている。人工呼吸器はついていない。会話も可能だ。その彼が自死を願い、それを実現してくれそうな弁護士、友人を言葉巧みに引き込み、ついには成就するというストーリーである。多くの評論で、主人公のラモンや若年性痴呆の持病を持ち、絶望感からやはり尊厳死を願う女性弁護士のフリアの演技に賛美がよせられているが、僕は、甥の青年の演技を感じさせない自然なそぶり(とくにラモンから無茶な要求をされてふてくされるところなど)にとても好感をもった。テーマとしては重いが、淡々と軽くストーリーを展開させていく手法もなかなかいい。知り合いに勧めようと思ったやさき、この田舎の映画館ではすぐ打ち切りになってしまったのが残念である。ご覧になられていない方は、ビデオやDVDになったら是非借りられることをお薦めしたい。

ところで、やはりこの映画のテーマである尊厳死ということに対し、コメントだけはしておきたいと思う。確かにいろいろな問題提起がある。生は権利ではあっても義務ではないという映画のテーマだけでなく、自殺は罰せられない(自殺してしまったから罰せないのではなく、未遂に対してなんら罰せられないではないかということ。殺人未遂なら立派な被罰行為である)のだから、自殺幇助も罰せられる必然性はない、ということは傾聴に値する意見だ。「28年だ。もう充分生きた」というラモンの独白も、それが事実に基づく以上、私たちに映画という虚構を越えて迫ってくる。そして自死の方法論を見ても、確かに青酸カリ入りの水は他人が用意するが、それと知って飲むのは本人自身である。それを証明するためにその場面をビデオで撮影しながら彼は飲む。すなわち自死を、あくまで自分の行為として完成させている。この話は実話に基づいているというが、実際はこの自殺を助けるまわりの人々に対して、法はどのような判断をしたのだろうか。上記のことから想像すれば、あくまで本人の自殺事案であって、自殺幇助は検討されなかったのではないだろうか。ここのところは映画ではなんらふれられていなかったが興味のあるところである。誰かスペイン語の堪能な方がいれば是非調べてほしいと思う。国内であれば、自殺幇助で取り調べを受けた上、嫌疑不十分で不起訴か起訴猶予というところだろうか。 

人工呼吸器を選択すると、それを止めることができない。だから選ばないという患者がいる、という話を最近よく聞く。患者の意思により、それを止めることができる選択を与えることができれば、もっと多くのALS患者が人工呼吸器を選択するはずだ、という意見もある。それが本当かどうか私にはわからない。ここ大分では、そのような理由で呼吸器を拒否した患者には出会ったことがないからだ。大分市では人工呼吸器を選択することの方がむしろ普通であるし、選択したあとも、80%の患者さんが在宅療養を選ばれている。それは在宅療養について、それなりの支援体制ができてきたことと関連が大きいと思われる。ただ、理由はよくわからないが、西日本などに比べて人工呼吸器移行率の低い関東などでは、確かにそういうことも実態としてはあるのかもしれない。が、人工呼吸器停止が可能になったら、そのことがもたらすマイナスのベクトル(患者に呼吸器をはずさせようとする有形無形の圧力みたいなもの)は途方もなく大きくなることも指摘されている。さらにその機械を止めるのは一体誰がするのか。一部の医師がひきうけるなどということになれば、その医者は安楽死請負人ということになるではないか。そういうことがありうるのだろうか。いまそのことで逡巡している患者さんがいるとしたら、考えてほしい。もし真に死を願うのであれば、人の手をかりずに自死をはかることを考えるべきではないだろうか。他人の手で、人工呼吸器のスイッチを切るのではなく、水分と栄養を自らの意思で拒否するのだ。確かに即座には死ねないが、この方法でも確実に死ねる。また、重大な決定である以上、ある程度の障壁はあったほうがいいのではないかと思う。そしてそのような要求が生じたとき、家族や介護者はどのように対応したらよいのかを、社会は真剣に考察した方がよいと思う。現在喧しく議論されているような、人工呼吸器を止めることのみが死ぬ手段などではないのだ。この行為であれば成就する過程のなかで引き返し可能であるし(このことが人工呼吸器停止と決定的に違う)、ある意味積極的に殺すという安楽死の概念からも距離をおける。呼吸器を止めるなどという、本来人を生かすための医療機器を死なすための道具化するなどという逆説じみた悪夢を実体化させるよりよほどよいのではないかと私は思う。

最後にひとつ。ここ最近で一番うれしかったことを書いておきたい。人工呼吸器はつけないと言われていた患者さんの往診を続けていて、先生、そういう時になったらつけて、と頼まれたこと。「だって本当は生きたいんよ、私だって」とはにかみながら言ってくれたこと。ながくこの医療をやっていてこころが温まる瞬間である。