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2006年5月16日 天地創造を見なおして

最近、中学生のころ見たハリウッド映画である、天地創造と十戒の二作をDVDで見直した。断片的にかつて見たことが思い出され、感慨深かったが、改めて思うことは、旧約聖書というのは、砂漠の流浪の民の原始宗教なのだなあ、ということである。なぜこれが世界宗教に発展しえたのか、まことに不思議に思う。そこに出てくる神は、極めて横暴であり、イスラエルの民以外にはまことに過酷であり、他民族絶滅を求めて土地を奪い、さらには信仰している人のこころを試すという、まことに人(ヒト)以外の何物でもない横暴非道さであり、無茶苦茶さである。愛などという概念とはほど遠い存在というべきである。そして旧約聖書には、そのことを自白している部分が最初にある。それは、「神は御自分にかたどって人を創造された」、という部分である。まさしくこれは、人が人に似せて神を造ったことの明白な自白というべきである。さて、旧約聖書に描かれた神というのは、ある特定の民族の守り神みたいなものである。イスラエルの民の神がヤーウェの神であるとすれば、他の民族にもそれぞれ神がいてしかるべきであるが、そのようなものがいると都合が悪いので、イスラエルの民のみが神を持つ特殊な選民であるという規定が必要になる。そういうことであれば、わが日本民族をはじめ東洋人は無論のこととして、アングロサクソンもアーリア人も全く神とは縁遠い民族のはずであり、ヤーウェの神からすれば絶滅させる対象でしかないはずだ。そういう極めて辺境の一民族の守り神を、信仰しさえすればあらゆる人の神になると概念を転換したキリストという男の新規定は凄いものであることがわかる。まさしく、キリストという人間は、この概念転換の意味を熟知していたわけであり、またその当時のユダヤ教のラビたちが彼を迫害したのも、正当な行為だったことがわかる。なぜなら、自分達のためだけの神を、広く世界の大衆に開放する、すなわち自分のためだけの神でなくなるからである。神を奪うことを簡単な洗礼という行為でかなえるとしたキリストは、まさしく革命者というべきであろう。しかし、残念ながら所詮は一民族の原始宗教の教義を援用したにすぎない。ダーウィンにはじまる進化論との対立など、科学的な検証に耐えるわけがない。批判や検証の対象とすることを拒否しているものの、天地創造は、古事記同様単なる人の作り話にすぎず、このようなものを信じるという態度は本来理性的にはありえないはずである。この日本のどこに古事記を人類発祥の正しい歴史と考えている者がいようか。しかし、世界には古事記同様の文書を硬く信じる多くの民と人がいるのだ。
神という存在があるとするとそれはどういう状況を考えるべきであろうか。例えば私は熱帯魚を管理している。病院の待合室にあるさほど大きくない水槽には、飼いやすいテトラ系(ブラックテトラ、グローライトテトラ、ネオンテトラ)や、コリドラなまずの類がいる。とくに二匹の赤コリはこの水槽で生まれた個体であるので思い入れも深い。それらの魚に意識というものがあれば、この水槽こそエデンの園であり、管理している私は神そのものと考えるはずである。もちろん私は魚が作り出した幻想ではないから、魚の形をしていないし、個別の魚の幸せを願うことはあってもそのために全能をふるうことなどはない。死んだとしても、寿命がきたか、とか、病気にかかったかと考える程度だ。だが、もし真に神という存在があるとすれば、人類にとっては、これが普通の態度であろう。すなわち、人とは姿も形も異なり、個別の民族あるいは個人の幸せなど考えるはずがない。それは単に観察するのみであって、その民族の都合がよいような託宣をするはずがない。なぜなら、それでは民が神に仕えるのではなく、神が一民族に仕えているだけとなるからである。わが国に古くから伝わる概念であえる、森羅万象を八百万の神と表現するほうがよほど神の規定としては正しい態度と私には思われる。利己的極まりない原始宗教の規定から自立するという成長を、ホモサピエンスが実現できるのはいつの日であろうか。それともそういう態度というのはホモサピエンスという種のDNAが生み出す固有の思考法なのだろうか。いつまでもそのような妄想に追われて殺し合いをしても仕方がないと思うのだが。