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2007年6月26日 脳死臓器移植小論

私なりに脳死臓器移植を考えてみたい。実は先日、ある医療運動の会合があったのだが、そこで、この問題で議論になったのだ。その運動の執行部の考えは、脳死臓器移植反対という立場であった。脳死の判定があいまいであること、あるいは脳死と判定された患者にも疑問が生じている、臓器移植のために脳死に追いやられている患者がいる(あるいは出る)、他人の死を期待する医療である、などが執行部がこれまで提起してきた問題であった。私は年前のこの会合で、レシピエントの権利が考慮されていないのではないか、と問題提起した。運動といっても多くの医療人、医療機関の集まりであるから、政党運動のように単一の考えにはなじまない。おそらく絶対的反対、消極的反対、消極的賛成に三分されるのではないか、というのが当時の認識であった。この運動体はそれまで絶対反対を主張し、例えば1994年に「臓器移植法反対医師緊急声明」の一翼を担ったりしてきたが、現在は、臓器移植法を厳密に守らせる、というのが運動体全体の共通認識のレベルとなっているようである。その意味からは、年前の私の提起も意味があったのかと思うが、やはり医療機関である以上、移植医療を必要としている患者に対してまったく思慮だにしないという姿勢は苛烈にすぎるという判断も働いたのだと思っている。

 今回各種資料を用いて個別に厳密な考察を行うつもりはない。残念ながらそのための資料も集められているわけでないし、そのような時間も持ち合わせていない。ただ、大前提となっているさきほどの議論の有効性について、大枠としての考察をしてみようと思う。まず、脳死の判定のあいまいさ、という問題である。これまでの判定においてもいくつか問題があったことが示されている。しかし、かつての和田心臓移植においてあったような完全密室主義は現在では存在しえない。だからこそ個々の例において疑問も発生する余地があるのだ。ある論者は、和田心臓移植の総括が出来ていない日本に移植医療を進める資格はない、と主張している。しかし、総括が不十分であったから、かくも永い間移植医療が止まっていたのではなかったのだろうか。そして、それを動かすために膨大な議論が必要だったのではないかと私は思う。十分に負債は払ってきていると認めていいのではないか。そして、かつての和田心臓移植のような密室での「医療」がなされないよう監視されるようになったことは大きな総括と私には思われる。もし問題があるケースが出たら、だから脳死判定は駄目だというのではなく、ではどうすれば改善できるのかという議論をすればいいのではないかと思う。現在、わが国において、臓器移植が前提の脳死判断ほど、厳密な死の判定はないのである。一般の患者が、一般の病院において、臓器移植が前提でない場合、もっともっとルーズな判断がなされている現状を、医療人なら誰でも認識できるだろう。

次に他人の死を期待する医療は認められないという論拠がある。これに対し、人の死というものは必然的に、あるいは確率的に発生するのであって、誰も期待などしなくても、事実としてランダムな他人の死が発生するだけなのだ、と反論したい。ある特定のドナーの死を期待しているわけではないのだ。万一、一卵性双生児の片方が、他方の死を期待するということがあれば個別の期待となり、問題といえるが、一般の移植医療というものはそういう前提には立っていない。それはむしろ生体移植における問題点に近いといえるだろう。したがってその件は脳死臓器移植とは関係がない。さらに言及すれば、レシピエントは特定の他者の死を期待しているわけではないが(前述の通り)、脳死臓器移植反対論者は、確実にレシピエント(正確にはその待機者)として特定される個人(ランダムではない)を死に追いやっていることを自覚すべきであろう。

会合の議論のなかで、中国やフィリピンなどの海外に臓器を買いにいく人が出ていることに対し、議論がなされた。こういう医療がすでにビジネスとして存在しているようであり、確かに海外の貧困層の臓器を金にあかせて買い取るような行為は、批判がなされる余地がありそうである。しかし、だからといって金にあかせてでもそのような医療を受けたいと切実に願う、あるいは必要とする人を否定していいのだろうか。国内の臓器移植に反対する運動は、その運動自体がそのような人を海外に送り出している側面もあることを理解すべきではないかと思う。別の類型として、国内では移植が開かれていない小児臓器移植が、地域で多くの募金が集められ、米国で移植を受けていることとについても考慮するべきだと思われる。それもまた庶民の草の根の運動のひとつともいえるだろう。脳死臓器移植に対して反対、あるいはその拡大に対して反対というのであれば、この小児臓器移植の現状に対してどのように考えるだろうか。

 私は基本的にレシピエントの権利を第一に考えないといけないと思う。もし私が関わっているALSが移植医療によって治療しうる疾患であれば、残念ながらALSはそのような医療が存在していないが、積極的にそれをすすめる義務が私にあると思うからでもある。医療人の運動というのは、政治運動とは違い、その点を外すべきではないと思うのだ。

 最後に、脳死臓器移植を絶対に許せない、あるいはしたくないという人の権利をどう守るかという問題もある。現状では、そのような主張をなす人が、脳死臓器移植のドナーにまわることはありえないと思うが、よりその権利を保障するために、私は脳死臓器移植保険というシステムが運営されるとよいのではないかと思う。無論介護保険のように国民全員の義務とはならない。臓器移植保険に加入する者は、臓器移植を受けられるが、反面自らドナーとなる義務と移植医療に関わる費用を分担して負う。極めて明瞭な運営になると思うがどうだろうか。移植医療費の個人負担や健康保険への介入も解消されることになる。もちろん、いざ移植が必要になるという段階になって、これまで保険に入ってなかったという人も、一括納入で認めるというくらいの大らかな運営は絶対に必要であると思うが。