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2009年11月2日 新型インフルエンザ対策は「わりきり」を

新型インフルエンザワクチンを一回にするか二回にするかの議論があった。専門家の間で一回打ちがコンセンサスになりかけたところで、政治主導というやつなのだろうか、わが大分選出の医系議員である足立政務官が議長をとった専門家会議によって、医療関係者以外は原則2回打ちとなった。

残念なことだと思う。この問題について最も大事なことは何だったのかということをどこかで置き忘れた議論になってはいなかっただろうか。最も大事なこと、それはインフルエンザワクチンに効果は「ない」ということだ。より正確に言うと、たとえ医学的な効果がなくても最大の社会的効果を上げるべきだったということである。議論が少し乱暴かもしれないので、少し説明的に書く。これまでインフルエンザワクチンは毎年実施されてきたが、今年はよく効いた、という実感があった年があっただろうか。このワクチンは感染予防にはならない、ということは専門家ならずとも常識なのである。実際わが病院で接種した方が何人もその後の流行期に罹患して、治療を受けに来院する。そのときの常套句が、「お気の毒でしたね。しかしワクチン打っていたから重症化せずにすんだのかも知れないですね」というものだ。これは別にワクチン代返せと言われると困るから言っているのではない。専門家の皆様が、感染を予防する効果は期待できないが、重症化防止効果はある、と言っているのだ。しかし、それは本当だろうか。

この手の根拠となる研究はさまざまなものがあって、老人の死亡が抑制されたとか、幼児の脳症の発現が抑えられたとかいろいろある。無論効かないという調査も多く、わが国でその代表というものは、前橋医師会の行った研究であろう。これが元になってわが国での学校接種が廃止となったわけであるから、この研究(前橋レポートと通称されている)のインパクトは大きかったといえる。しかし、それらはいわゆる疫学調査であって、難癖をつければきりがないということもある。効果があるという研究に対しては、ワクチンを打つような人は、人ごみに入らないようにするなど日常生活でも注意するから罹患率が減るのだというものだ。いわゆるHealthy workers effectみたいなものだ。効果がないという研究に対しては、たとえばその代表格たる前橋研究には、昨今有名な菅谷医師が、前橋では流行せず、(接種をした)高崎では大流行したという地域差が生じていたのだと断定している。つまり高崎でも接種しなかったら前橋の何倍もの罹患率があったはずだが、接種していたからそれが下がり、結果として流行しなかった前橋と一致してしまったのだ、という理屈なのだ。こうなるともう難癖のレベルを越えて、ワクチン教と、無ワクチン論との神学論争のようである。

現場医療での実感としては、インフルエンザワクチンに効果があるなどととても思えない。ついでに言うと、わが国のHAワクチンというのは、インフルエンザウイルスのごく一部の成分に対するものであって、副作用も少ないが、効果もある抗体価が上がるということでしか実証されていないのだ。最近、米国などでは全ウイルスを用いたものも開発されているらしいが、これがHAワクチンより圧倒的に優れているというデータは未だ聞かない。

では、本当に効くかどうかわからないワクチン(今回の新型ワクチンもHAタイプである)で、なぜ二回打ちにこだわらなければならないのか。答えは効かないから一回打ちでは不安だからだ。では、二回打ったら効くのか。効かないものは一回打っても二回打っても同じだ。どうせ効かないのなら、半分に薄めた一回うちでまず国民全員に打つべきではないかと私は思う。インフルエンザの流行はほぼ確実に小中学生で始まる。この年代の学校生活の人口密度の高さが流行を広げるのである。普通の大きさの教室にあんなに人が長時間入るなどというのは、通常の社会人であればめったにないだろう。本当にワクチンが効くのなら、まずこの年代に打つべきなのだ。で、もし今回のワクチンが効くのなら流行は止まるはずだ。効かないのなら、ワクチンは不要か。いや、証明されていないが、重症化を防ぐという護符がある。この護符は、医学的には無効でも、社会の安定には寄与する(その意味ではまさに護符だ)。早く打ってくれ、俺を先に打ってくれという不安を解消させれる社会的効果があるのだ。そのためには、いたずらにリスキー者に二回打ちとかで多くの人を後回しにするのではなく、リスキー者も健常者もひとまず一回打ち、可能なら水割り打ちをしてまず希望者にいきわたらせることが必要だったと私は思う。効かないかもしれないが、それでもよいという「わりきり」がワクチン政策に必要だったと思わずにはいられない。足立政務官、読んでますか。

診療においても「わりきり」が必要である。最近のインフルエンザ診療の必須アイテムは簡易検査である。ところがこれが出回って却ってインフルエンザが診断しずらくなったという逆説が成立している。インフルエンザにかかって発熱しても、発熱後一日以内だと、この簡易検査が陽性に出ないのだ。実は私も、ついこの前までは、この簡易検査を頼りにしていた。なんとか陽性を出そうと、鼻の奥まで綿棒を突っ込んで検体採取したり、反応液を規定の倍入れたり、一晩置いておいて翌朝うっすらとでも反応でてないかと目を皿のようにしたりとか。そして反応が出ないと、抗インフルエンザ剤を出すのをためらう。一日分だけ出して、残りは翌日再検査して陽性だったら出すとか、してしまっていた。しかし、インフルエンザの診療とは、簡易検査の陽性を出すことが目的ではない。患者の治療をできるだけ早く行い、重症化を阻止することのはずである。しかし今までのやり方では、簡易検査によって重症化を促進しているようなものではないか。では、どうするか。「わりきる」のだ。簡易検査に頼らず診断すればよいのだ。今から10年前、阪神大震災のあった年、インフルエンザが大流行があった。1月の休日当番医の日など、朝から晩まで140人もの新患が押し寄せた。その当時簡易検査などなかったが、診療には支障がなかった。そのときの感覚に戻ればよいのである。もし何らかの根拠が欲しかったら、血液一般検査で白血球のカウントと簡易分画を見ればよい。これで扁桃炎とか細菌性肺炎を区別すればよいのである。以前は、流行地域で突然の高熱などの臨床像があれば、インフルエンザと診断してきた。厳密に言えば、その中には通常の感冒なども一部は含まれるであろう。しかし、感冒に抗インフルエンザ剤を投与したからといって特別な副作用があるわけではない。どうしても証明したかったら、抗インフルエンザ剤を飲ませて、翌日か翌々日解熱してからでもよいから簡易検査をしてみたらよい。よくなってから証明する必要が絶対的にあるとは思えないが。

あえて声を大にして言うが、インフルエンザ対策は、予防も治療も「わりきり」が肝要だと思うのだ。