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2010年2月25日 TOYOTAにあらわれた品質と危険性

クルマとしての魅力はやや劣るが、品質のコストパフォーマンスは最高という評価で、世界最大のカーメーカーに上り詰めたわがトヨタ。上り詰めた先には、やはり崖が待っていたのかと思う。現在のクルマは、ボンネットを開けたら、機械の塊りしか見えない。私たちがクルマに乗り始めた35年前、ボンネットを開けたら道路がしっかり見えた。とくにサニーなどの直列4気筒車は、エンジンが縦に細いため、スカスカであった。私が乗り始めたのは、中古のFF1であったが、これは現在のスバルにつながる水平対抗4気筒で巾が広いため、あまり道路が見えず、優越感をもったものだ。FF1でラリーをかじり、山中の林道でカウンターステアの練習をしたりしていたが、そのころのトヨタのイメージといえば、グラグラ・フニャフニャ。定まらないステアリング、妙に柔らかいサスペンションで、ガチガチに固めたトレノやレビン以外は、単なるファミリーカーに過ぎなかった。そのころの愛読書であったカーグラフィックによく登場したfun to drive という言葉から全く離れていたメーカーでもあったのだ。が、そのトヨタがその言葉をパクった。突然テレビコマーシャルに「fun to drive、トヨタです」などと言い出し、走りに品質があることにやっと気がついた。とはいってもメルセデス、BMWなどの高級車だけでなく、ゴルフなどの大衆車をとってもドイツ車との走りの品質の違いが大きかったが、まあ、アメリカ市場というのはそういうことに元来無頓着な市場のようであり、一見品質(というより見栄え?)のよいトヨタが大成功を収め、フォード、GM、クライスラーのビッグ3は瓦解するにいたる、というのがこの30年の流れであろう。

今回の議論の本来のテーマは、コンピュータ化であろう。エンジンの予期せぬ吹き上がりというのは、昔からあって、アクセルケーブルが引っかかるとかで発生してきた。以前はクラッチがあったから、エンジンが吹き上がってもクラッチを切りさえすればよかった。ついでにいえばFF1ではケーブルの取り回しに無理があったようで、クラッチワイヤーも結構よく切れた。クラッチワイヤーが切れて、クラッチが使えなくなったときいかにシフトアップするかなどのテクニックまであった。どうやらトヨタは報道によると、そういう機械的なトラブルをなくすため、あるいは燃費のための最適化のために、そういうアクセル制御を、2000年ごろコンピュータ化したらしい。アクセルペダルはエンジンと直結したワイヤーではなく、コンピュータが介在したセンサに過ぎなくしてしまったわけだ。

卑近な話になってしまうが、自動吸引というシステムの開発に10年間携わってきた感想の一つとして、技術者と医者の考え方は、相当大きく違うものがある、ということである。技術者のモノの考え方は、完全な制御を至高とするようである。あらゆる情報を管理し、最高の動きを実現することを目指すのである。そのために多くのセンサーを用い、評価を自動化させ、あらゆる局面に対応しようとする。それが悪いといっているのではない。もちろんその方向性を目指すのであれば、最高の制御をしてもらわなければならない。しかし、自動吸引でその方向を取るということは、常に危険と隣り合わせになるということでもあった。万一コンピュータにエラーが発生したり、思いがけないアクションのためにシステムが誤作動する恐れはないのか。そしてエラーが生じたときにそれが大きな危険まで走ってしまう怖れはないのかということである。現実的には初期の自動吸引システムで、重症の患者にはうまく作動するが、まだ自発呼吸が不完全に残っているような患者では、誤作動が頻発するようなことがあった。そのときにローラーポンプを用いるという方法を見出した。私は渡りに船と、制御の方向性を捨てた。制御をしなくてすむのであれば、それこそ最高の方法だと思った。しかし、技術者の志向性はやや違った。エラーが生じるのは、制御が不完全であるからで、より精密、緻密な制御を行うべきだというものであった。ヒトの身体に使うものだからという、非技術的な論理で、私は制御の方向を捨てた。さらに最終的にはカフ下部吸引孔も、「まず安全」というレベルではなく、多少の効率の低下が生じても、絶対に安全というシステムに変更した。そして最終的に出来上がったのは、カニューレ筒内吸引孔から低量持続吸引を行うという「非侵襲的持続吸引」システムである。嬉しかったのは、そのようにしても効率が落ちなかったことである。ここの推移については、医歯薬出版の医学雑誌であるクリニカル・リハビリテーション3月号に詳しく書いておいた。現在のシステムは、吸引圧が異常高値となっても、粘膜吸着の恐れはゼロである。もしそのようなことが生じても、それは単に吸引ラインが詰まっているだけである。もちろんこれまでのシステムでも、まず粘膜吸着は考えられなかった。しかし、万一という危険性からフリーというわけではなかった。そうなると現場では疑心暗鬼に陥る。そういう事態が生じるたびに、粘膜吸着が生じていないことを証明しなければならなくなる。これはかなり苦しい。そしてそういう事態の何千分の一かには、真に危険が生じている可能性だってあるのだ。

エラーの確率は普通低い。しかし、何千分の一程度のエラーであっても、何千台も稼動すれば、どれかに事象が生じてしまうということを忘れてはならない。トヨタの販売する車の量は何千台どころではない。何百万台であろう。そうなると、何百万分の一の確率であっても、エラーは顕在化してしまうのだ。現在、米国の議員諸氏が確信を持っているのは、コンピュータは絶対にエラーを起こすことを経験的に知っているからだ。もしマイクロソフトがクルマを作ったら、というブラックジョークが流行ったこともある。そういう直感については、議員の方々の勘は鋭いし、おそらく正しい。それは彼らが基本的に山師のセンスを持っているからだ。政治家とは本来そういうものだと思う。今回のトヨタの対応のまずさは、会社全体が技術者として振舞ったということにつきるだろう。まじめな技術者であればあるほど混乱してしまったと言うと言い過ぎだろうか。技術者同士なら議論になっても、相手が山師だと勝てない。あるシステムを組む。それがエラーを生じる可能性があるから、バックアップのフェイルセーフのシステムを組む。そのバックアップシステムがエラーを起こす可能性があるから・・・となるともうきりがない。世界最高の燃費を狙ったコンピュータ化は、同時に大きな危険(あるいはその幻影)をもたらしたのだ。

Simple is best なのだ。少なくとも私たちの自動吸引の方向性は間違ってはいなかったのだと確信できる。それが嬉しい。