2011年5月12日 海自あたご事件地裁判決に思う 

昨日あたご乗組員の無罪判決のでたあたご事件であるが、あの判決は、船に乗るものは皆大きな違和感を感じたのではないか。裁判での詳細が明らかにされているわけではないが、推定された航跡がおよそ現実的ではないからだ。一つ言えることは、この判決を出した裁判官は、海技免許を持って操船したことがないと確信できることだ。

新聞報道によれば、漁船側の航跡は、あたごの相当後方を通るはずであるにもかかわらず、右転して、あたごの船首に飛び込んだということになっている。テロリストならともかく、自殺するという目的でもないかぎり、このような進路など現実的にありえない。ひとつは、両船の位置関係が固定されたものではなく、後方を通るというのは、最初から相手のスピードが正確に分かっているものではないため、接近前には分からないということと、右転の意味の理解が把握できていないところからくる錯誤であろうと私には思われる。

出会い船での衝突を避けるために、海上衝突予防法は相手船を右に見る船が避けねばならないとされている。従って我々が航行するときは、とくに右側から接近してくる船により注意を払う。ヨットの場合、帆走であれば、その位置に関わらず優先権があるが、機帆走である場合は船種による優先権は消える。とくにジブという船の前側のセールを出していると出した側の前方が見えにくく、より慎重な注意が必要になる。しかし本当は航路優先権のある船の方が実は怖いのである。なぜ優先権があるのに怖いのかと、海をご存知ない方は不思議に思うかもしれない。それは、優先権のある方の船には、進路保持義務というのが生じるからなのだ。まっすぐ現在の方向、スピードを保たなければならい、というのは、相手が気づいてないかもしれないという不安があるとき、相当怖い義務なのである。広い海のなかなぜぶつかるかといえば、その原因の大きな部分が、この進路保持義務にあると言ってもいいのではないか。つまり、優先権のある船は、そのまま衝突コースであっても直進しなくてはならない。避ける義務のある船は、優先権のある船のコースを見て、自船の針路を変更して衝突しないよう避けねばならないのだ。確かに優先権のある船の針路が乱れると、避けねばならない船も困る。しかし、優先権のある船は相手が本当にこちらも視認できているか不安のなか近づくことになる。この種の事件で有名なのは、東京湾で1988年に起こった潜水艦なだしおと遊漁船第一富士丸の衝突である。この事件も今回と同じ両船の位置関係である。あのときは、主たる責任は潜水艦側にあるとされたが、富士丸も最後に相手を避けようとして左転をしたことに責任があるとされた。衝突寸前に潜水艦が避けようと右転したため、本来してはならない左転をした富士丸が衝突したのだと認定された。しかし、ここがミソなのであるが、相手が気づいていないと思われるときに、相手の船首に飛び出す行為となる右転は、物凄く怖い操船なのだ。富士丸の最後の航路も、衝突をさけるあらゆる行為を双方に求められているのであるから、それが不当とは実際には思われないのだ。しかし、有名なこの事件は、最後の瞬間も左に逃げられないというくびきを残してしまった。

そういう問題意識の上で、今回の衝突事件を再現すると、優先権のあった漁船側は、衝突コースであっても当面は直進せざるを得ず、あたごの前方に向かい、両船が接近してきたとき、漁船の想像以上にあたごが速く、かつそのままでは衝突するというコース関係にあったため、右転しながら逃げようとしたが、漁船に全く気がついていないあたごの船首に引っかかったというものであろう。本来衝突コースにならない後方を抜ける進路をとっていたら、わざわざ衝突コースをとるような操船は、自殺かテロ目的以外にはありえない。漁船もあたご同様、何か作業をしていてあたごを確認できていなかったというなら、オートパイロットに任せた操船となり、そのまま直進しているはずで右転はありえない。判決では漁船の右転の理由は不明としているようであるが、不明なのは判決が推定した航跡であるという反省が必要ではないか。

何より不思議であることは、こともあろうにイージス艦が、レーダー探索がなされてなかったのか、ということである。これではテロリストに夜襲されても気がつかないという間抜けさである。データは残されているはずであるのに、裁判のなかで航跡が議論になるというのは、データを隠しているか廃棄したとしか考えられないではないか。

今回の地裁の判決は、極めて違和感の残るものとなった。海を知らない裁判官の机上の空論としての判決としか思えない。海の常識からかけ離れすぎている。是非高裁においてしっかりした裁判をしてもらいたいと思う。