2011年8月20日 地球外生命体はあるのか

昨年末に大画面録画デジタルTVを、人様より相当遅れて購入してTVを見る態度が変わってしまった。私はバラエティが好きではないので、夜の時間帯は各局のニュースをハシゴでだらだら流しておくだけ、という半分照明器具のような使い方であったのだが、今はその週の見たい番組を探して予約録画しておき、夜それを見る、という使い方になった。したがってTVをしっかり見るという態度に大きく変わった。録画容量に限りがあるため、録画したものをどんどん見て、消去していかねばならない。これはこれで追いたてられているようであって結構忙しい。視力が落ちたこととあいまり、読書量がかなり減ってしまったという副作用も出てきている。

この半年で最も興味深かったのは、NHKBSで時々放映されているコズミック・フロントである。出だしの地球の絵と、ナレーションが始まるともういけない。宇宙における美しい映像、私たちが考えもしないことに必死で取り組んでいる科学者の皆さんたち、私たちが子供のころからあった壮大なプロジェクト、そういうものを拝見できることは私にとって大きな楽しみである。ただ、先日放送された「地球外生命を探せ」というテーマに関しては、違和感の残るものであった。他の多くの厳しい環境の星であっても、それに近い地球環境のなかで生命は存在する、従って、そのような星においても生命は存在しうるという仮説がバックボーンとなっていたと思う。それは絶対に違うのではないか、と私は思う。現在地球上のありとあらゆる所に生命は存在するし、植物、動物など全く違う系統の生物で満ち溢れているように見える。しかし、それら生物はありとあらゆる全ての生物共通の仕組み、DNAというものがあるということを私たちは認識してきたのだ。地球が出来て37億年といわれる。しかし、根本をたどればその37億年の気の遠くなる年月のなかで生命の誕生はわずか1回しかチャンスがなかったと言えるのではないか。もっとチャンスがあったのであれば、DNAとは違う遺伝情報を持った生命の機軸になる構造が全く異なる多くの生命系統があってよいことになる。この生命活動に都合のよい地球という環境においてさえ、37億年分の1しか、生命誕生のチャンスがなかったことをもっと重視しなければならないのではないかと思える。今の火星と変わらない環境のもとでも地球生命は確かに存在しているだろう。しかし、そのことはそういう環境で生命が誕生するということではなく、そういう環境にも適応できるよう進化するというDNA構造のフレキシビリティがなせる業であることを認識すべきではないかと思うのだ。そのDNAはどのようにして生み出されたか。隕石の分析から、最近は地球外からやってきたのではないかという説もある。となると、それは汚染である。私が考えるのは、地球外にロケットを飛ばしているが、そのロケットがウイルスなどのDNAを他の惑星にもたらし、それが何億か先に生命の華を咲かせる、そういうことがあるのではないかということである。ファンタジーを語ってみると、太古に地球外生命がこの地球に訪れて、排泄物を置き土産にしていった。その排泄物に存在していたウイルスや細菌が、全ての地球上生命の元となった、そういうことならありえると思う。となると多くの宗教が呼ぶ「神」とは、その排泄物を置いていった地球外生命体ということになる。それは、全知全能であるわけはなく、ヒトの幸福を願うわけがない。そういう神ならあるいは存在してもよいかと思うのだ。しかし、37億年に一回程度の機会しかない生命の誕生が、いくら広い宇宙だといって、我々に遭遇できるほどの近さで存在しえるかというとそれはありえないだろうとやはり思う。