2012年5月29日 撤退とは何か

国会事故調なるものが、昨年の福島原発事故当時の政府関係者の聴取を公開で行っている。権力に対する検証がかくも堂々と行えることは、誇りに思ってよいと思う。中国や北朝鮮などの独裁国家ではこのようなことは絶対に起こりえないからだ。重慶の事案のような追い落とされた元権力者に対してなされる可能性ならあるがそれは往々にして政敵叩きにすぎない。ただ今回の事故調の質問の内容、聞き方を聞くと、事故の調査を公正に行うというより、やはり批判のための批判、いやむしろ叩きではないかという印象を強く持つ。医療事故の報道にも同じような印象を持つことが多いが、結果論から、批判のための批判を行うという印象を禁じえない。そのときどれだけ人が真剣に対応し、頑張っても、未だ結果が見えない状況のなかで、後から見たら間違ったことを考えていた、と分かることは医療の世界では日常のことであるからだ。またマスコミ各社のこの事故調の報道に対するスタンスにも違和感がある。とりわけひどいのは、なぜか普段比較的公正な報道をしていると思っていた共同通信であった。枝野氏の聴取の報道においては、枝野叩きという印象が強い。もちろん私も当時から「ただちに健康に影響をもたらさない」と繰り返された彼独特の表現には大きな違和感を持った。それはむしろ、ただちにはないが、長期的に影響をもたらす、と主張したいのかと思ったほどだ。文系政治家の限界かもしれないが、理系であれば、長期的にも問題の生じないレベル、と表現しただろうし、そうしなければ意味はなかった。しかし、官房長官が、問題の実務と広報を一人で同時にすべきではないという彼の意見に対し、共同通信は、責任転嫁と表現しているが、これは論理的にもおかしい。これは非常時においては、実に正しい提言ではないかと私も思うからだ。他にも、全員の撤退を主張したのではなく、一部の者の退避のつもりだったと東電幹部は今になって主張していることを正当とし、あたかも政府が勝手に全員撤退と勘違いしたかのような報道までしている。

馬鹿ではないか。

東電は当時、枝野や菅から、撤退はありえませんよと言われ、反論をしていない。わかりましたと答えているのだ。まさに東電は撤退をしたかったことはこのことからも一目瞭然である。すると、撤退と全面撤退に差があるようなニュアンスの報道となっている。 撤退とは、そもそもどういう意味であるのか。共同通信は、先の大戦における重要なポイントである、「ガダルカナル撤退」という言葉を、どのように読むのか。ガダルカナルから、必要な人員を残して、そうでない者を避難させることを意味するのか。当時は撤退という言葉は、全面敗退の真実が明らかになってしまうからと大本営は転進と言い換えたはずだ。そのようなことは、マスコミとしての基本中の基本の常識ではないのか。 戦時中から今に至るまで、撤退とは、その場から全面退却することである。一部を残すことを意味するものではない。それを撤退というのだ。全面撤退と部分撤退があるのではない。現にある事態で表現すれば、某電気機械大手が、中国から撤退と言ったら、一部の不必要な人員のみわが国に戻すことを意味するわけではない。一切合切中国から引き上げることを撤退と言うのは自明であろう。もちろん連絡員くらいは残すかもしれないが、それをもって撤退ではなく、部分退避だということはありえない。

すなわち東電の提案とは、あの時点において、全員退却以外の意味はありえないのだ。それを今になって、一部の者だけの避難だったと当時の東電会長の勝俣は事故調で主張しているようだが、それこそが虚偽そのものである。一部の者の避難を政府に伝えたければ、逆に全面退却ではないことを、撤退ではないと誤解されないよう、慎重の上にも慎重に伝えようとするであろう。例えば何人中何人をそこから離しますとか、何%の人員を後方に下げますとかできるだけ正確に言おうとするだろう。あるいは、枝野や菅から撤退はありえませんよと言われたら、そんな提言ではないと必死で反論したはずである。それを全くしていないということは、第一原発からの退避とは一部退避などではなく、全面退避、すなわち撤退であることを彼ら自身が認識していたがゆえのことである。今になって勝俣が何を言い募ろうが、一部退避などということこそが虚偽の証言であるということがこれらによって証明されるのである。政府に対して批判的であることが報道の姿勢であることは間違ってはいないが、今回の報道ぶり、とりわけ共同通信での報道が、あまりにもアンフェアな印象を私は受ける。マスコミも事故調もよく考えるべきだ。あのとき政府が、あるいは菅氏が東電の撤退を受け入れていたら、今日本はどうなっていたかを。水素爆発による建屋の破壊程度ではすまず、全ての原子炉が爆発するというチェルノブイリの何倍もの災禍をもたらしたはずだ。東京にそのとき人が住めることになるのか。そういうこともかまわず撤退したいと提案したのが東電である。そのような責任感のかけらもなく、今に至っては堂々と虚偽を弄することも厭わない東電幹部の意見を無批判に受け入れるべきではない。

私たちは、菅氏に救われているのだ。いかに菅が嫌いな方も、そのことは事実として理解しておく必要がある。それが、当時の必死に闘った政治家への最低限の敬意である。