2014年6月5日 士農工商か農林水産か

諫早干拓は、国の無気力のためにますます混乱に陥ってしまっている。業を煮やした佐賀県漁民側は、不作為への制裁金として日額49万円の間接強制を佐賀地裁で得たが、今度は農業者側が長崎地裁に同額の間接強制を長崎地裁で得て、再びイーブンとした。つまらない方針のもとで後世に禍根を残す政策を行った後遺症といえばそれまでだが、これら裁判の状況を見れば、国側があくまで干拓維持、農業維持の立場に立っていることは明らかである。それは自分の方針を守りぬくという意図がある以上ある意味当然ともいえる。しかし優先順位を見ると農、林、水という厳然たるカーストがあるが如しである。

このような議論の複雑な問題が出る場合、国としては形として叡智を求めるとして専門家会議などを開催し、その上で政治決着をつけるという態度を取ることが普通であろう。私が関わったじん肺肺がんの問題では、多くの専門家会議なるものが国によって設立され、その実国の方針に従った人選がなされ、国の方針にお墨付きを与えてきた。当初はじん肺肺がん関連なし派が選ばれて当然出る結論は関連なし。IARCなどの国際機関が関連性を認めるようになり、この国の関連学会もそれにそった意見を持つようになると、関連あり派を集めて関連ありという結論を出させ、国の方針を変更する。なぜ公正な人選をしないのかと当時私もこのやり方に憤ったものであるが、後から見ると、それなりに時代状況と乖離せずに政策を行う極めて「優れた」やり方であると思ったりもする。そのような妙手がありながら、なにゆえ諫早干拓についてはこれを行わないのであろう。裁判が行われているからその結論を待つということであったのかもしれないが、漁業者側からの提訴では徹底的に争い、それで負けたが、開門が裁判所から認められるや、農業者からの提訴では今度は徹底的に無気力相撲をとり、わざと負けて漁業者側へのカウンターとさせる。ここにあるのは、単なる干拓維持への執念だけであって、その目は国民を向いているのではなく自らの「失敗百選」への執念だけである。

国が農業、漁業のどちらかにのみ利益を与えるという方針を採るとするのであれば、それは公正な行政とはもはや言えない。農業、漁業のみならず、国民全体への公正な奉仕者でなければならぬはずである。農林水産省が自らの過去からの考えのみに拘り、公正な判断が出来ない状態は、もはや行政などではない。なぜ専門家会議を開催し、広く判断を得ようとしないのであるか。それはどちらの側に立つかを議論するのではなく、広く国民全体にとってどのような方策を取るのが有用であるのかを議論すべきなのである。農業、漁業ともに成り立つ方針を探ることこそ必要なのである。私は以前このコラムで、汚水池こそが諸悪の根源であり、これを大幅に縮小して必要最小限とし流水を保つことが農業、漁業のそれぞれのために必要であると考えた。その考えは今も変わらないが、世の中には多くの意見や考えがあるであろう。それらを精査し、これから何をするのがよいか徹底的に国の責任で議論してもらいたいのだ。そこから導かれた公正な結論をもって行政とする、そういうことが裁判所に振り回されない公正な行政のあり方ではないかと考える。そして、それをしないことこそ国の不作為なのではないだろうか。