2014年10月7日 再び「たかをくくる」について

927日わが班は、職員旅行で山口に向かったが、私は午前の外来があるので、それが終わってから一人で列車で山口に追いかけた。小倉駅の待合所でTVが火山の噴火を伝えていた。一人意識がないという報道だったように思う。映像を見ながらその程度ですんでるのか?と思いながら新幹線、在来線を乗り継ぎ湯田温泉のホテルに到着した。そこで見たのは容易ならざる状況であった。違和感を持ったのは、よく台風などの被害で、死者、行方不明○○人という表現をしていたが、今回は死者○名、心肺停止○名というように、分けて報道していたことだ。これが後までずっと続く。医師が死亡を確認しないとそれは死亡ではなく心肺停止だというように表現を変えたのだと思うが、これまでの言い方であれば、死者、心肺停止○○名とまとめて表現すべきではないだろうか。あまりに防衛的あるいは少し官僚くさすぎる表現のような印象を受けた。全てのマスコミが横並びでこう表現していたが、おかしいと思わないのだろうか。

さて、今回の死者の死亡原因のほとんどは、噴石の衝突による損傷死といわれている。雨あられのごとく沢庵石大の噴石が落下してきたわけであるから、当たったら助からないだろう。まことにお気の毒であるが、やはりここで思うのはなぜシェルターがなかったのかということである。

以前阿蘇山に行ったとき、火口周囲に多くのシェルターがあるのを見たことがある。火山の爆発でこの程度のシェルターが役に立つのかな?というのが当時の印象であったが、もし御嶽火口にこれがあれば、かなり多くの方々が死なずにすんだろうことは想像に難くない。なぜ阿蘇山にあって御嶽にはないのだ。

 阿蘇山は、79年に噴火があり、4名が亡くなったらしい。それで84年までにシェルターを作ったということである。やはり作る原因はあったのだ。未然に事故を予測して作られたわけではない。それでも事故を受けて作ったことは評価されるべきである。御嶽も数年前に噴火している。そのときは幸い死者はいなかったようだが、これが幸いとならなかったのがこの事故の教訓である。もし神様がいるとしたら、あのときちゃんと示唆しておいたのにと言われるような事態ではないか。

 原発立地について、何万年かの間に動いた活断層の可能性については厳しいのに、千年程度、いや100年間に何度も起こった津波を軽んじる、というのが福島第一原発の悲惨な事故の原因だった。何万年も噴火などしない死火山ならともかく、歴史上だけでなく、つい最近も爆発したことがあるにもかかわらず、シェルターさえ作らないで多くの人を呼び寄せ平気でいる。このたかをくくる体質というのは一体何なのだろう。原発しかり、御嶽もしかりである。ひょっとすると私たち日本人のDNAに刷り込まれている体質ではないのだろうか。例えば米国ならどうしていただろう。訴訟大国たる米国なら、予測される惨事に対し、行政が何もしないということがどういうことになるのか容易に推測できるから、しっかり対策をするだろうと思う。

 火山学会の会長らしき学者が、火山とはそういう危険があるのだ、などと事故後に平然と喋っていたが、なんという無責任な発言なんだろうかと驚いた。火山学というのは、基本的には人に危害が発生しないようにすることが目的ではないのだろうか。まさか、そういうことは関係なくて、地球現象を眺める純粋学問だとでも言うのだろうか。健康な山登りが可能な若者も含めた70人近く死亡してしまうような事故を起こしてしまうことがあってよかろうはずはない。真に人への被害を食い止めようという志があれば、そういう危険のある山に対策もなく人を寄せる危険を大声で指摘するべきだったのだ。行政に対してのみならず、登山者に対しても、である。シェルターには費用がかかるなどという論説もいくつかの新聞にみられた。それはそうだ。どんなものでもただではできない。しかし、人の命の重さ、リスクの大きさから比べれば、ハイテクでもなんでもないシェルターが不当に高かろうはずがない。古い国鉄の貨車(もちろん有蓋車)をヘリで輸送して置いておくだけでもよかったではないか。当院でも、車輪のない貨車を倉庫として駐車場に並べてある。

 原発が破壊されることの恐ろしさと比べたら、ただみたいな外部電源さえ確保しようとしない「たかをくくる」体質とこれはまさに相通じるものがあるように思える。病院運営にリスク、リスクと強制的にさまざまな活動を強いている国が(それが悪いとは言っていない)、何ゆえこのような過大なリスクを放置するのか。人にはさせるが自分はしないというこのいい加減さを批判せねばならないと思う。この国や、この国の行政は、基本的に「たかをくくる」体質にまみれているのだと。