山本の主張
2019年3月12日 透析中止事件について 毎日新聞がスクープした東京都公立福生病院の40代女性に対する透析中止死亡事件はきわめて現代的な問題点を顕にしていると思う。そしてこのことは我々難病医療に関る者にとって人工呼吸器中止の問題につながる論理的、倫理的課題を示しているとも感じる。 直接の伝聞を持たないため、基本は毎日新聞での記事から類推するしかないが、透析維持に疲労した40代女性が、透析をしたくないと医師に相談し、医師は患者の意思だとして透析中止とし、患者は同病院で入院したうえ最終的には緩和を施され死亡したということである。患者は透析中止から時間がたつにつれて苦しくなり、透析再開を望む言動があったが苦しくなければいいのかとの問いを肯定したため、緩和となったようである。 驚きの一つは対象がまだ若い意識清明な患者であったことだ。意識のない高齢の重度の合併症もある患者というのならさほどの驚きはないだろう。であったにしても、そういうことを実施するのであれば倫理委員会を開催し、慎重に討議した証拠を残して実施するものだと思う。なぜなら批判にさらされやすい案件に対しては、個人的な暴走やいわれない批判をさけるため慎重にことを運ばねばならないからだ。それは病院や医療関係者を守るために必要なことだからだ。 今回明るみに出れば批判を招く可能性の高い案件に対し、かくも無防備な対応を公立病院が行ったということは、関係者のヒロイズムか、無思慮か、なにがしかの通常でない意識状態が共有されていたと感じる。それは何か。 ひとつは価値観であろう。透析対象を終末期と捉える疾病感がみられそうである。難病でもよくこの言葉が用いられる。人工呼吸器が必要になった状態を終末期と捉える観点である。しかし真の終末期とは、もはや何を行っても死が避けられない状態というのが本来の言葉の定義であると考えられるので、何らかの医療を継続すれば死が避けられる状態を終末期というのはおかしい。難病でも同様である。何も医療をしなければ死が避けられない呼吸不全の状態は、確かに一見終末期であるが、人工呼吸を行えば意欲的に生きていくことができるのあるから終末期とは言えない。人工透析も同様である。いや、それ以上に通常の医療行為である。 さらに重要な論点となるのは、終末期状態を継続させるということへの反感である。胃瘻を作って患者を無駄に生かすという批判に表される、最近のトレンドともいえる価値観である。とくに若手のDrたちが、高齢者への積極的医療を行いたがらないという風潮がある。90代だから大腸がんの手術を勧めない、と家族を説得した消化器内科医がいた。90代で難聴ではあるがしっかり自分で考え、話すことも歩くこともできる患者に対して手術を勧めないという対応に強い違和感を感じた私は、同じ病院の外科部長に相談した。先生、その患者さんのお名前を教えてください、と彼は言った。私は家族を集め納得してもらい、外科は手術をしてくれた。その患者はその後3年経つが健在である。先日外来でお会いしたら、先生がいうもんじゃからわしゃー切腹させられた、わははは、と元気よく笑われた。なんであの先生は手術を勧めないと言ったんだろうと、家族は不思議な思いでいたが、元気のよいじいちゃんの明るい振る舞いに救われている。情緒的エピソードで問題の本質をずらそうとしているのではない。生産性のない高齢者を無駄に生かすことは医療資源の浪費であるという新自由主義的な考えが確かに広がっているのだ。そういう考えが一定の根拠を持つことは確かにありうる。しかし医療者自身が無批判にその考えを受け入れるのは責任放棄である。であるから、倫理に関る重要な判断を行う場合は倫理委員会を開催し、しっかり本質的な議論をしなければならないのだ。一件一件倫理委員会を開く余裕はないと福生病院の院長は発言したようだが、個別の案件をその都度開くというのではなく、本質的な議論を一度しっかりしておく必要があるということだ。世間の風潮に対し、医療関係者が最後の砦になる場合もあるのだ。 私たちは人工呼吸器をしないと決めた難病患者が、最後に考えを変えてつけてほしいと言われたため、危機が迫っていたため家族の了承を取らずつけたことがある。そのことに家族が反発し、患者を他院に転院させた。この事態について検証する倫理委員会を後日開催した。病院幹部に加え、看護師長、看護大学倫理学教員、弁護士で構成する倫理委員会であった。そこで私たちが知った最新の医療倫理の考え方は、患者には本来完全な自己決定権があることだった。例えば絶対にしなくてはならない手術も、患者は拒否することができるように、自己決定権は患者の自由意志に基づくかぎり絶対的であり尊重せねばならないということであった。そのため、患者が考えを変えたとき、家族の反対は無効であること、病院は家族の反対に対し、患者の利益を尊重すべく行動すべきであると判定された。その患者はすでに家族によって他の病院に移り、約2ヵ月後亡くなったと聞いた。医療倫理的には、我々は考えを変えた患者を守らねばならなかったのだ。しかし患者が考えを変えなかったら我々は人工呼吸器をつけることはできない。透析をしないことと同様、人工呼吸器をつけないことも患者本人の決定に従うべきなのだ。 今回の福生病院の事例で最大の問題となるのは、最終場面となったときに患者が透析の再開を願ったが、緩和に誘導されたということであろう。意識が清明だったときの約束が絶対視されたことになる。しかし患者は逡巡するものである。意識が清明でなかったとしても、患者の生存に不利な誘導はしてはならないと私は思う。これまでの事前指示とは異なっていても、取りあえず命をつなぎ、再度考えてもらうという手順が必要だったと思う。それくらい人の命は重いものだという了解が医療者には必要と思う。あらかじめ患者が透析を拒否したときにどのように行動するのかの規範を倫理委員会で作っておく必要はあったと思う。もちろん慎重に行動するならそのような規範を作ったうえで、該当するケースを個別にきちんと議論するという姿勢が必要となる。今回の問題において、医療関係者に悪意はないと思われるが、思慮は足りないと思う。たとえば自分の娘が透析拒否しても同じ対応をとったと言い切れるのだろうか。おそらくそのあたりの違和感が今回の事件化の原因ではないだろうか。 |