このドキュメントは、じん肺に合併した肺がんについて、管理4という最重症のじん肺にしか労災認定をしていなかった国・労働省に対し、管理3のじん肺に肺がんが生じて亡くなった夫をもった遺族と弁護士、数学者、医師の、国を相手にした闘いの記録である。本編は94年から96年にかけて、季刊労働者住民医療という小雑誌に連載したものに若干の加筆、修正を加えたものである。末尾に最近の情勢の変化を記載した。

  

腐りゆく肺
 Document by M.Yamamoto


第1部 野中事件

 「佐伯監督署長の処分を棄却する」
大分地裁民事第一部林醇裁判長の声がした。かたわらの息子が手を握り、「かあちゃん、勝ったよ」と声をかけてくれたとき、野中トシ子は体の力が抜けるのを感じた。夫であった政男との30年が走馬灯のように浮かんでは消えた。平成3年3月19日、春にしては陽差しの強い午後であった。

 政男と初めて出会ったのは、昭和26年、トシ子が21歳のときである。山口県の徳山で働いていた政男は、会社との団交の席で労務に殴りかかり、解雇され、津久見に渡った。小野田セメントの造設工事で溶接工として働きに来ていた小柄で短気だが一本気な政男に、19歳のとき父を亡くしたトシ子は工事現場で出会った。
 トシ子の父の死は、労災事故であった。津久見のセメント山でトロッコを馬に曳かせていた父は、近くを通りかかった日豊線の汽車の汽笛に驚いた馬が立上がったはずみで、トロッコごと谷に転落したのだ。父はまだ48歳の若さであった。別府で洋裁の勉強をしていたトシ子は家に戻り、父にかわって幼い兄弟のいる家の生計を立てるため、作業着鉢巻き姿で工事現場に出ていたのである。

 「女の子も一人欲しいな」
子供たちと遊んでいた政男がトシ子に言った。トシ子との間には3人の男の子があいついで生まれていた。そして政男はトシ子が驚くほど子煩悩な父親となった。仕事から帰って、息子たちと遊ぶ政男の横顔は幸せそうであった。
 小野田の造設工事も終り、津久見に溶接の仕事がなくなった政男は、別府に単身出て働くことになった。別府での仕事も順調となり、別府に家を建てようかと言っていた矢先の昭和36年、政男は結核と診断され、別府の病院に入院することになった。トシ子は再び地元の工事現場に働きに出るようになった。

 「トシ子さん、大変。政男さんが事故にあった」
妹からの電話を、トシ子は隣町の駅で聞いた。その日、トシ子は風邪をこじらせ、臼杵のかかりつけの医院に行っていた。昭和45年5月のことであった。あわてて病院にかけつけたトシ子は、病院に先に着いていた既に高校生になっていた長男から事情を聞いた。
 別府の病院を約4年間入退院を繰り返していた政男は、40年ころからは自宅静養が許されていたが、少し体調も戻ったといって、43年ころから、少しづつ工事に出るようになっていた。その工事現場でクレーンが倒れ、政男の体に鉄骨が降ってきた。政男の右腕はその鉄骨に潰されたのである。切断した右腕が化膿し、政男はまた長い入院生活を今度は大分の病院で送らねばならなかった。傷が痛み、熱が毎晩のように出た。

 「血沈が亢進していますな。病院を紹介しますから」
政男は臼杵保健所の医者からそう申し渡された。やっと傷がなおって家に帰れたと思ったら、まただ。政男は気が滅入ってくる自分を感じた。昭和50年であった。傷は治っているのに、また毎晩熱が出る。咳もでる。ひょっとしたら結核の再発かと思った政男はトシ子に黙って保健所を受診してみたのである。保健所は佐伯の上尾病院を紹介してくれた。上尾病院の結核病棟に入院した政男は、歴史書を読みあさった。本を読むことしかできない自分が恨めしかった。
 「野中さん。じん肺の申請をしてみましょう」
ある日、院長から言われた。じん肺? 政男は、自分は溶接工でしたが、と院長に聞き返した。
「溶接のときに煙がでるでしょう。あれはヒュームといって、ただの煙ではありません。金属の小さな粒なのです」
院長は政男に説明した。
「それをあなたは長年吸い込んで、じん肺の陰が出てきたのです」
「今度はじん肺か」
政男はつぶやいた。
「あとせいぜい10年だな」
じん肺に認定されたら長くもって10年というのがその当時患者のなかでささやかれていた。
「お前には苦労ばかりさせて、子供らにも父親らしいことが全然できなかったなあ」
申し訳ないという政男の顔をトシ子は見られなかった。
 しかし、結核もほぼおさまり、昭和54年にじん肺に認定された政男には久しぶりの平穏な毎日がやってきた。通院治療が許された政男は、よく大分の長男の家に遊びに出た。はやく結婚した長男の家には既に初孫が出来ていた。
「大ちゃん、絵がうまいなあ。じいちゃんも昔、絵かきになりたかったんよ」
膝の上に抱いた孫の大輔に語りかける父の言葉は長男にも初耳であった。政男は大輔をときには津久見に連れて帰った。
「とうちゃんの子煩悩が再発したわ」
大輔に熱心に字を教える政男を見ながら、トシ子も久しぶりにおとづれた穏やかな日々をかみしめていた。
 しかし、その平和な日々はごく短いものであった。

 「先生、この結核はどうも少し変ですよ」
主治医となった医大から派遣された若い研修医はカンファランスで上尾病院院長の長門に政男の胸部レントゲンを示しながら遠慮がちに言った。
「抗結核剤を投与していますが、陰影は全く変化しません。病状もむしろ少し増悪しています」
 昭和56年年末、政男のレントゲン写真は、結核空洞の周りに陰が拡がり、空洞内にも水がたまっていた。再び結核の治療のため、政男は再入院となったのである。しかし、入院後も病状が日ごとに悪化するのが家族の目にもわかる。
 政男はその研修医の派遣元である大分医大に精密検査のため転医することになった。政男は、再び毎日が何か自分の意志とは全く違う何かの手で引っ張りまわされているような不安感を覚えながら、主治医と院長の説明に従い、医大病院に転医することを了承した。妻は、一緒に医大について来てくれたが、不安のためかあまり喋らず顔が蒼い。政男は、心配するな、ちょっと検査を受けるだけだ、すぐ帰れるからとトシ子に言った。昭和57年5月であった。
 大分医大付属病院は、大分市街からやや西に離れた小高い丘の上にある。政男は入院手続をとると、既に連絡が入っていたようで、すぐ看護婦がやってきて、病室に案内してくれた。ベッドは7階の見晴しの良い北向きの部屋であった。窓から高崎山と鶴見、由布の山々がよく見える。「おとうさん、きれいな景色ねえ」トシ子は、ついさっきまでの不安感を忘れて、ベッドの横の床頭台に私物を置いていた夫に言った。政男も窓の外の景色を手をとめて暫く眺めた。

 「お気の毒ですが、がんです。肺がんです」
やっぱり。
トシ子はそう感じた。目の前には第2内科の名札をつけた若い医師がいる。医大に転医してから1ヵ月たったころである。1週間前、夫は気管支鏡の検査を受けていた。あれは苦しい、咳がとまらんで困った、そう言った夫の顔を思い出しながら、癌でなければいいがと思い続け、どうしていいか分らず、仏壇に手を合わせてばかりいたのに、今、自分がなぜ冷静でいられるのか少し不思議に思った。医師は続けた。
「既に手術の適応はありません。放射線療法をした方がいいのですが、医大ではまだ出来ません。県病(県立病院)にその施設がありますから、そちらに移っていただくのがよいと思います」
 「おとうちゃん、今度は県病にいかんといけんて」
無理につくった笑顔で夫に話しかけたが、政男は黙って窓の外を見ていた。
「帰れんかもしれんのう」
夫のつぶやきを聞こえないふりをしながら、
「大丈夫よ。結核も今は放射線で治るいうから」
医師から言われたとおり言いながら、トシ子は夫の肩を叩いた。

 「奥さんすぐ部屋にもどって」
昼過ぎ、回診があるからと病棟の面会室に出ていたトシ子のもとに看護婦が走り込んで来た。政男は血を吹き上げていた。
「吸引、吸引!」
白衣の男たちが2、3人夫の身体にはりついている。吸引のチューブは真っ赤になっている。トシ子は政男が血の湧きあがる口を動かすのを見た。
「さよなら。トシ子」
はっきりそう聞こえた。
「挿管!。挿管するから、アンビューしっかり押して!」
「プルス(心拍)が落ちている。看護婦さん、血圧は!」
「触知できません」
医師と看護婦たちの声がまわりを飛び交う。
「いかんな、波形が拡がってきた」
モニターの横で指示していた指導医らしい医師がトシ子の方に振り返った。
「奥さん、無理かもしれません。どうも癌が肺動脈を穿孔させたようです」
モニターが甲高いアラームをならし始めた。
arest(心停止)! 。

 動かなくなった夫を見てみた。痩せこけた顔が土色をしている。放射線療法をしてから夫は以前とは全く違うほど顔色が悪くなっていたが、それでもこんな色ではなかった。
「もう点滴もせんでええんよ。コバルトかかりに行かんでええんよ。おとうちゃん、大変やったねえ」
ふと、横を向くと息子が駆けつけて病室に入ってくるところであった。
「おとうちゃん、だめやったん?」
そう言う息子の顔を見たとたん、トシ子はとめどなく涙が出てきた。昭和57年11月19日。結核の悪化と信じ、病気がうつると、可愛がっていた孫の大輔を病室に入れるのを反対し続けた政男の59歳の絶命である。
 戦後の復興期、高度経済成長と発展をとげた我が国の、まさに陰画を描くような生きざまを強いられた一人の男の死であった。

 解剖が終って、夫は霊安室で棺に入れられ、家に戻り、葬式を出し、初七日とあっというまに二ヵ月がたっていた。
「おとうちゃんの補償、出らんみたいや」
息子の言う意味がトシ子はよく分らなかった。
「なして。おとうちゃん、じん肺がもとで死んだんやねえんか」
息子に聞くと、息子の説明では、夫の死因は肺がんで、じん肺で死んだわけではないので認定されないということであった。
「監督署の人が一番重症の管理4のじん肺やったら、認定できるんやけど、おとうちゃんはその下の管理3やったからいうてな。けど、申請するだけはしたらいうから、書類は出しといたけど、まず無理らしいわ」
 事態は息子の言ったとおり進んだ。上尾病院の院長は、審査で管理4に変更されるかも知れないからあきらめずにと言ってくれたが、駄目であった。じん肺に合併した肺がんは、昭和54年の労働省局長通達によって、管理4のみ業務上とみなされるようになったが、それ以下のじん肺では私病扱いとされるのである。佐伯労働基準監督署からの業務外決定通知、そこには「本決定に不服あるときは60日以内に審査請求をすることが出来ます」と書かれていた。トシ子は迷わず審査請求を行なった。しかし、不服審査も業務外決定が出された。

 「奥さん、決定理由書を貸してもらえんですか」
にこにこした初老の男がトシ子に言った。男は野中広樹。名刺には大分県勤労者安全衛生センター所長と書いてあった。
「センターの顧問の医者にみてもらおうと思いますから」
水道局に出いていた息子の話を聞いた地区労の活動家が安全センターに連絡したのだ。
「奥さん、今こういうことになった人が裁判で闘っているんですよ。大分にもそういう人がいます。労働省は役所やけん、どもこもならんかもしれんけど、裁判にすれば勝ち目も出てきます。何より、私らはご主人の肺がんはじん肺から出てきたと思うとりますから、認定させたい思うとります」
 裁判・・・。トシ子は気が重くなった。裁判になったら弁護士雇わないけんし、そんなお金ないし。
「ただ、まだ中央審査会がありますから、それに勝てたら裁判にならずに認定されるかも知れません。しかし、あまり期待はできませんが。とりあえず、この資料はお預りします」
トシ子は、どうぞお願いしますと言うしかなかった。

 「先生、これ読んでみてくれんですか」
私は病院当直の晩、安全センターの事務局長である野口から渡された理由書を開いてみた。センター所長の野中広樹は、その前年肝硬変に肝癌を併発させて亡くなっていた。野口は亡くなる前に野中から託された資料を整理していて、この決定理由書をみつけたのだ。
 うーん、これは管理4は無理だな。そう思いながらページをめくっていた私は、ある挿入資料に眼がとまった。Final pathological report。大分医大第2病理学教室のサインの入った、野中政男の最終病理報告書である。その第1項は、陳旧性結核病巣から発生した瘢痕癌と英語で記載されていた。 
「野口さん、これはやれるかもしれん」
私は少し興奮して野口に電話した。このケースなら直接因果関係が成立しているといえるのではないか。それなら管理4でなくても中央審査会で逆転認定できるかも知れない。そう思った私は意見書を書いた。私の立てた論理はこうだ。現在じん肺管理4の合併肺がんしか認定されていないのは、じん肺と肺がんとの因果関係を認めず、ただ管理4では肺がんの早期発見が困難なこと、その治療も制限されるからという理由による。しかし、本例はじん肺結核空洞から直接発生した癌であることが病理学的に確認されている。結核はじん肺と直接的な関係を認められた疾病であるから、それが原因となって癌が発生したのなら、通常のじん肺と肺がんの因果関係が確認できなくてもこういうケースに関しては認めるべきだ。
 しかし、中央審査会もまたそれまでと同様に業務外決定を下した。管理4ではない、という理由で。

 野中トシ子の気持は揺れていた。監督署で落とされ、不服審査でまた落とされ、味方についてくれた医者の意見書を提出し、今度はと期待をつないだ中央審査会からも同じ決定を下された。やっぱりお国に意見しても通らん。そう思っていたトシ子には、裁判まで行きましょう、こういう特殊な事例は例え他が駄目でも認定させねばなりません、という山本医師の話も、必ず勝てるという自信があるようには見えなかった。しかし、夫の最後のあの苦しんだ半年間が、単なる私病だといわれるのがつらい。しかし、今まで頑張ってみたんだ、もうそっとしておいて欲しいという気持もつよい。そんなトシ子が裁判に踏みきることにしたのは、息子の言葉であった。「おとうちゃんの供養のつもりでやってみようよ。お金は僕がなんとかしてみるから心配せんでええよ」
 この日から、この争いは、野中事件として大分地裁民事第一部で審理されることになった。

 ひょっとしたら勝てるかもしれない。トシ子は息子の話を聞きながらそう思った。裁判に踏みきって半年後、じん肺管理3に合併した肺がんで争われていた松山地裁の判決が下ったのだ。原告は同じ大分の人だった。弁護団も夫の裁判と同じ人達だ。トシ子は新聞を食い入るように見つめた。そこには弁護団長の安東のコメントが載っていた。

 「やったやった。すごい。こんな尋問は滅多にないよ。この裁判は絶対勝った!」
証人尋問を終えた私に岩切は抱きつくように握手を求めてきた。控室には傍聴に来ていたセンターや地区労の関係者、尋問を終えた原告側弁護士が次々に集ってきた。
「山本サン。証人は聞かれたことだけを答えんといかんのよ。あれは証言じゃなくて講演だよ」
横井も笑いながら同じく握手を求めてきた。陽気な岩切と冷静な横井。二人は宮崎県でそれぞれ松尾鉱山、土呂久と砒素中毒の公害運動を担う活動家である。横井はこののち私が勤める大分協和病院の常務理事兼事務長となる。
「いやー、私も反対尋問が終ったとき思わず拍手したくなりましたよ」
翌年大分県弁護士会の会長となる徳田も笑顔で言った。実は私と徳田は本件の立証方針の議論で、個別的立証に重心をおくか、疫学的立証を中心にすえるかと随分やりあってきたのである。松山地裁を闘ってきた徳田は、疫学論争でこの訴訟も固めねばならないと考えていた。しかし私の意見は、瘢痕癌であるという個別立証を行なうべきであり、それは一般のじん肺と肺がんの疫学論争にはなじまないという立場であった。私と弁護団とは何回も会議を重ねた。私は瘢痕癌としての個別立証の部分を意見書として提出し、弁護団は準備書面で疫学について、すなわちじん肺と肺がんの相当因果関係を論じた。弁護団は山本を医学証人として申請し、大分地裁はそれを受入れた。証言は、疫学と個別立証と2本建てでおこなわれた。同日反対尋問もなされ、野中政男が喫煙者であったことから、肺がんと喫煙の影響について執拗に訟務検事から山本は追及されたが、野中の肺がんの組織型である腺扁平上皮癌は喫煙との関係は強いものではない、個別的にはじん肺結核空洞という瘢痕が重大な影響をもたらしているとかわしたのである。

 そして判決の日を迎えた。勝訴である。トシ子は皆にせかされて地裁前で挨拶をすることになった。
「おとうさん、勝ったよ。皆さんのおかげで勝たしてもろうたよ・・・。家に帰って、そう、いいます」
トシ子はそう話すのがやっとだった。今日のうれしさと、不安のなかで過してきたこの何年かの想いがあふれ、それ以上言葉を続けられなかった。まわりの支援者から拍手が沸き起こった。涙であろうか、霞んだ眼に陽差しがまぶしかった。

第2部 控訴審

 「もしもし、かあちゃん、駄目やった。控訴されてしもうた」
息子からの思いもよらない短い電話にトシ子は驚いた。松山も控訴されずに確定したと聞いてきいるのに、いったいどうして。弁護士達も予想に反したこの国側の控訴にはとまどいを隠せなかった。国は、控訴期限の前日、福岡高裁に控訴したのである。
 やはり・・・。横井は電話を受けてつぶやいた。住友相手に10年の長きにわたって土呂久公害訴訟を闘ってきた横井は、これで終わったという弁護団の判断は、甘いのではないかと気にかかっていたのである。
「山本サン、あんた最後まで責任とらんといけんよ」
 野中事件は舞台を福岡高裁に移されることになった。しかし、この控訴審においてじん肺と肺がんの疫学上の大論争が起こることになるとは、その時点では誰も考えていなかった。国の時間稼ぎだろう、皆その程度に考えていた。

 弁護士の徳田は、国の控訴趣意書を読みながら、これはいったい何だと自問した。横山教授の調査によるとと書かれている下りが何箇所もある。徳田は松山訴訟のなかで、国内のじん肺と肺がんの関係を論じた論文はほぼ眼をとおしたという自負がある。しかし、横山の調査とは何か。読み進めるうちに、この横山論文が国の控訴した主たる理由となっていることに気が付いた。わが国のじん肺と肺がんの関係についての認識は、千代谷慶三の名による労災病院の疫学調査結果が昭和63年に公表されて大きく変化した。千代谷らは全国の労災病院に入院していたじん肺患者を5年間追跡調査し、その集団から発生した死因を分析したのである。死亡者のうちその約半数はじん肺による呼吸不全で亡くなっていたが、注目されたのは肺がんによる死亡が通常の約4倍という高率になっていたことであった。それまでも、岩見沢労災病院の剖検例の調査などからじん肺には肺がんが高率に発生するのではないかという見解はあったが、剖検例はふつうのじん肺集団に比べて歪んだ集団といえるのではないかとの疑問が残り、確定的な認識となるに至らなかったのである。松山地裁の判決は、この新たな認識を基軸にすえながら、非喫煙者でもあった患者の肺がんをじん肺との関連が最も強いと判断したのである。国は控訴することさえ出来ず、判決は確定した。その意味からは、野中政男は喫煙者ではあったが、じん肺における肺がんリスクの問題を喫煙の問題もからめて評価した大分地裁判決は、瘢痕癌という個別因果関係を含めて殆ど控訴しうる理由がないはずであった。
 平成2年度労働省委託研究。慶応大学内科学教授、横山哲郎氏による剖検輯報から観察したじん肺における肺がんリスクの試算結果がそれである。全国の病理結果が報告されている日本病理剖検輯報から、じん肺という記載のある症例と無い症例との間の肺がん構成率の比較を行ったという横山の報告は、その値がじん肺記載症例のほうが1.63倍高いが、この程度の差では粉塵暴露を受ける労働者は喫煙率が高いからそれで説明できるとしたものでる。また、横山は国際的な知見として、約150篇の論文を並べ、肺がんリスクの高いとする文献と、高くないとする文献が相半ばするとして、未だ有力な意見は形成されていないとまとめた。
 弁護団のもとに横山論文が届いたのは、その年の12月であった。弁護団の事務局長をしていた河野聡が、私に横山論文を届けにきて言った。
「どうも国は本気みたいですね」
若手で元気者の弁護士で通る河野は、こころなしか表情が暗かった。
「とにかく先生、来年の1月中には、批判をまとめてもらえますか」
 これは、結構な量だ。私は正月にでもじっくり検討してみようと思いながら、まあ、何とかなるさ。批判できない論文など存在しない、と思い直して、それでも今度は一審のように楽に勝てることだけはなさそうだなと感じた。
「それにしても、文献150篇か。気が遠くなる」

 「横井さんよ、こうは考えられんかなあ」
前年の秋より、大分協和病院に組織担当として勤務することになった横井のところに、私はメモを持って行った。平成4年の正月が少し過ぎたという頃である。その紙を見せながら、私は横井に説明を始めた。
「じん肺群の肺がんが25%、じん肺でない群の肺がんが15%。単純に割ったら確かに1.6倍くらいにしかならん。しかし、肺がん以外の死亡が実は同数だとすると、結果は変るわけだ」
 それぞれの群の肺がん以外の死亡に注目してみよう。じん肺群の肺がん以外は75%、非じん肺群のそれは85%となる。それが、実は同じ発生率であったとしたら、じん肺群の肺がんは、非じん肺の15%に対し、
   25×(85/75)=28.3
と修正され、それぞれの肺がんの量の比は
     28.3÷15=1.9
となる。(註1)
「1.6と1.9では大した差ではないよな。しかしね、じん肺群は肺がん以外の死亡の中で、一般群にない大きな死因があるはずだろう」
私にそう言われて横井は気がついた。
「じん肺そのものによる死亡か」
「そう。そいつを横山は完璧に無視しているんだ」
じん肺群で、実はじん肺死が40%あったとする。一般群には当然じん肺死はないから0%である。そうすると、同じ発生率であるはずの「その他の死因」は、じん肺群は、肺がんとじん肺以外の死因となり、それは45%、非じん肺群は肺がん以外の全死因であるから85%ということになる。そこで修正されたじん肺群の肺がんの率は、
   25×(85/35)=60.7
と大きく変わる。そして二群の肺がん量の比は、
     60.7÷15=4.0
となる。横山論文には記載されていないじん肺死が、もし過去の追跡調査と同じくらいあれば、肺がん死の比は、実際は4倍となりうるのである。
「そうすると、千代谷のコホート結果の4倍という値と、横山の1.6倍という値は矛盾することにはならないわけか」。横井は完璧に見えた膨大な横山論文に、確かに孔が穿たれたことを感じとった。

 1月末に開かれた弁護団会議はちょっとした興奮状態となった。私が、先の検討結果を弁護団会議にかけたのである。土呂久訴訟の医学論争を担当した切れ者で通る岡村弁護士が議論を引き取るようにして発言した。
「泥舟は沖に漕ぎ出さしておいて沈めましょう」
漠とした不安が無かったとすると嘘になる。それが晴れた。真冬のその夜、会議から帰る弁護団のメンバーたちは寒さを全く感じなかった。これで勝てる、その確信が皆の体温を引き上げていた。
 「いや、まだ証明できたことにはなっていない」
横井はつくづく自分が心配性だなと思いながらも山本に言っておくのを忘れなかった。
「実際のデータで、あんたの言ったことを証明しないといかんよ」
横井は、丸一日かけて剖検輯報1年分をコピーした。千二百ページにもなる。それを何人かに割り振って言った。
「このデータの中から、じん肺という項目のある症例を全部拾い出して下さい。全部で約3万件ありますが、一人100ページはお願いします」
横井は、医療生協の職員を中心に説明した。松尾鉱山被害者の会事務局の岩切もまた志願して調べた一人であった。
 1ヵ月後、大まかな集計がでた。私は電卓を叩きながら、傍の横井に声をかけた。
「3.7だ。剖検輯報のデータにじん肺死を入れて計算しなおすと約4倍になる」

 平成4年5月、新たな書証が国側から福岡高裁に提出された。東大和田功教授による平成3年度労働省委託研究。それは、文献からみたじん肺と肺がんの関係についての整理だった。
「あんたもえらく買われたもんだな。敵は慶応、東大かい」
横井は茶化して私に言った。和田論文を読んでいた私は、
「有難い。敵から塩を送ってもらったようなものだ。論文150篇にまいっていたら、和田さんが整理してくれたよ」
実は、私は一日3篇読んだら2ヵ月で150篇読めると皮算用していた。病院も4月から有沢医師が新たに着任し、少し余裕もでていた。ところが、逆に取り掛かろうとした矢先、アスピリン喘息(註2)の患者がそれと知らない近くの開業医から風邪薬を投与され、自宅で服用し突発的な窒息発作を生じて協和病院にかつぎ込まれてきたのだ。妻が必死で車を飛ばして病院に着いたとき、患者は既に心停止の状態であった。山本、有沢らは懸命の蘇生措置を施したが、心拍が再開するまでに約40分かかった。その患者は38歳であったが、脳死状態となり、10日後に死亡した。そういうことはなぜか続くもので、4月から5月の間に癌末期の患者など5名が協和病院で亡くなり、そのうち4名までが私の担当であった。全然文献が読めていない、そう嘆息していた私のもとに和田論文が届けられたのである。
 「和田さんはね、必要な文献は30篇だと言うんだ。そのくらいならすぐ読める。それで通読してみたんだが、大体見当がついたぜ」。私は、6月はじめの夜、病院の近くの赤ちょうちんで横井にビールを注ぎながら続けた。「横山が、肺がんのリスクが高い文献とそうでない文献が相半ばすると書いていただろう。あれは、じん肺患者でリスクが高くて、粉塵暴露労働者では余りリスクが高くないということなんだ」
「そりゃ、基になる母集団が違うということじゃないか」
横井も土呂久訴訟での疫学論争で、疫学には既に素人ではない。
「そう、その差というのが、実はミッシングリングだった訳だよ」
どうやら山本は何かつかんだなと横井は思いながら、
「それでミッシングリングは見つけたのか」
と訊ねた。
「ラゴリオだ。ラゴリオ。こいつがその隙間を埋めてくれてたんだ」
 ラゴリオ。イタリアの疫学研究者である。彼は、イタリア北部の人口1万人程度の窯業産地で症例対照研究を実施していた。彼はその町で死亡した人間の調査を行い、粉塵暴露労働者の肺がんリスクは、そうでない者の約2倍であったが、粉塵暴露労働者のうち、じん肺に進展していた者ではそのリスクが4倍にはねあがることを観察していたのだ。しかも喫煙量との比較も行い、じん肺に進展していない粉塵暴露労働者は、そうでない者と同じ喫煙量だったときに肺がんリスクに差はでないが、じん肺に進展していたものでは同じ喫煙量でも有意に肺がんリスクが上がっていることもつかんでいた。横井はその示す意味が理解できた。
「リスクが上がっている文献と、そうでない文献、これはどちらもそれなりに正しいわけか。矛盾する結果ではないわけだな」
横井は、これで闘えるとひそかに考えた。この裁判はあくまで正面戦でいこう、と。
 IARC(国際がん研究機構)のシモナートとサラッシは、ラゴリオ等の成績を評価し、IARCの1990年の公式刊行物のなかで現状認識として次の3点にまとめている。
第1、珪酸は動物実験では発癌物質である。第2、珪酸暴露労働者には肺がんリスクが上昇している。第3、そのリスクの上昇はじん肺に進展した者に集中している。

 8月には剖検輯報のデータも細かな処理がほぼ終了した。マンテル・ヘンツエル法による年齢補正が行われた統合オッズ比という最新の疫学手法を加えられた計算結果は、じん肺における肺がんの相対危険度の推定値が、3.84であることを示していた。それは千代谷らのコホート結果である4.1倍とほぼ同じ数値を示していた。横山論文はついに完全に克服されたのである。
 9月、私と岩切、横井は中国東北部の鞍山にいた。じん肺の研究会で知り合った中国のじん肺専門医である舒医師に誘われ、彼の所属している鞍山鋼鉄公司付属労働衛生研究所を訪れたのである。
 飛行機で博多から大連へ。そして大連から鉄路を北に急行列車で約5時間。そこが鞍山である。人工衛星から写真をとると、いつも煤煙で隠されているという一大製鉄都市。百万の人口のうち50万が製鉄所に働く街である。
 「日本からの山本先生をはじめとする大分協和病院の皆さんを熱烈歓迎します」、そう日本語で大書された会議室で、鞍山労衛研のメンバーらと私たちディスカッションを行った。最初に、私がじん肺肺がんの臨床例をスライドで紹介し、次いで剖検輯報からの調査結果を報告した。次に演壇に立った鞍山労衛研黄疫学主任は、まず、
「自分は山本先生の半分しか能力がない、なぜなら私は臨床は知らず、疫学だけをやっている」
と、にこやかな顔で講演を始めた。
「これはもの凄いデータだ」
私と横井は思わず顔を見合わせた。黄主任が示したデータは、現地の耐火煉瓦工程における肺がんリスクである。私たちがこれだと感じたラゴリオのそれと全く同様の結果がそこにあった。

 12月2日、私は福岡高裁で証言を行った。尋問者は河野弁護士である。私は横山論文の批判を行い、自らの調査結果を示し、剖検輯報からも日本のじん肺患者からは約4倍の肺がんリスクが推測できることを示した。また、国際的な知見の到達点としてシモナートを例にとり、じん肺と肺がんの関係は既に明らかであるとまとめた。
 被告、国側は反対尋問の権利を放棄した。

註1:このとき1.6は比例死亡比であり、1.9はオッズ比を示すことになる。現代の疫学では、もはや比例死亡比は使わず、オッズ比を使うのが常識となっている。それは、比例死亡比の場合、ある特定の死因の量が増えると、その他の死因の量が相対的に減少するため、比を求めた値が罹患率比を示すものとはならない。オッズ比を用いると、そのような現象は生ぜず、対照疾患の罹患率が一定と仮定できれば、その値は罹患率比そのものと推定される。

註2:成人になってから発症する喘息の一部(約10%といわれている)に、鎮痛剤のよって発作が誘発されるタイプがある。当初、アスピリンによって発作が生じることからアスピリン喘息といわれてきたが、この喘息はアスピリンのみならずほとんどの消炎鎮痛剤によって発作が誘発される。しかもその発作は多くは激烈で、服用後短時間で発生する極めて危険なタイプの喘息である。死亡例も多く、全国的にはこのことを知らずに鎮痛剤を投与し、死亡せしめて訴訟になっているケースがいくつかある。最近ではアスピリン喘息という呼称を止めて鎮痛剤誘発喘息(AIA)というようにしようという提案が出されている。

註3:平成3年度 労働省災害科学に関する委託研究。和田功、長橋捷、柳沢裕之著。最近の国際的なじん肺と肺がんの関連についての知見をまとめた。しかし、内容はシモネートらの、けい肺に進展したもののなかに肺がんリスクが集中していると指摘した総説の引用において、原文には存在しない「シリカ自体に発がん性があるのか、あるいはけい肺状態が他の発癌因子の作用を増強するのか、ともに未だ仮説の段階である」という一文を付け加えるなどかなり意図的なものである。このような悪質な歪曲が少なくとも3ヶ所は認められる。

第3部 疫学論争

 「うーん、何だかだまされてるような気がするなあ」
岡山理科大学応用数学科教授の山本英二は、剖検輯報の検討結果を記した福岡高裁への意見書の原案を見ながら、私の前で少し首をかしげた。山本英二は、理論疫学の専門家である。彼は以前から岡山大学の若手医師らと疫学の勉強会を通じて交流があった。私も岡大の衛生学教室に入局した昭和54年ころ1、2回会ったことがある。私は、私たちの求めた剖検輯報からの相対危険度の数値と、その分析に使った方法論が、現代疫学理論から外れていないか山本英二に教えを乞いに行ったのである。平成4年8月であった。
 「少し、考えさせて下さい」
英二は即答を避けた。彼は、山本真らが行った分析方法は、基本は症例対照研究の方法論を使っているといえるのだが、検討材料が剖検輯報という偏りがかなりありそうな集団であるうえに、対照には通常使用される目的疾患以外の全症例を用いず、一部の症例すなわち肺がん以外の悪性新生物に限定していることが気になった。英二は教授としての雑用をすませ、一人になって考えを整理してみた。
「そうか、真さんの言っているのはミエッティネンのケースレファレントスタディのデザインということになるか」
英二は、さっそく手紙を書いた。
「とても面白い考え方と思います。その部分だけでも疫学関係の学会に報告する価値があるのでは?是非頑張って意見書といわず論文を書いて下さい」

 ここで山本らの考えを整理しておこう。剖検輯報とは、日本病理学会が年1回発行する全国の病理解剖された全データの集積資料である。しかし、この資料は日本の全死因別死亡のデータとは大きなずれがある。それは、病理解剖に回される症例というものが、死亡症例からランダムに取り出されたものではなく、臨床医の興味を引いた症例がより剖検に回される率が高くなるという歪みがあるからだ。従って、剖検輯報では全死因別データに比べて悪性新生物(癌など)の占める率が高く、また癌のなかでも肺癌や肝癌は多く、胃癌は少ないという特徴もある。各症例は、臨床診断、主死因、副病変が記載されているが、1症例あたり2行の限られた内容にすぎない。横山は、この主病変か副病変のどこかにじん肺という病名がついている症例を取り出し、そのなかに肺がんが同時に記載されている症例の百分比を求め、男性の全剖検例における肺がん百分比を年齢補正を加えたうえで除した。それを横山はO/E比(観察値/期待値比)としたのである。それに対して山本は、その方法では、じん肺群にしか生じない「じん肺死」の影響を排除できないこと、横山の方法は過去の概念である比例死亡比にすぎず、それはコホート結果の罹患率比とは直接比較できる数値とはならないと批判した。実際、山本、横井らが1年分の剖検輯報約3万件を調べたところじん肺が記載された症例が224例あり、そのうち「じん肺死」と考えられる症例は68例約30%にのぼり、決して無視できる数ではないことがわかったのだ。それでは「じん肺死」のみ除外して算出すればよいかというと、じん肺群は結核や肺炎などの呼吸器関連疾患で死亡した症例が異様に多い。となると、どこで区切ると正確な値が得られるか全くわからない。そこで山本が考えたのが、悪性新生物のなかだけで検討するという方法である。最近の症例対照研究の概念を用い、症例に肺がん、対照に肺がん以外の悪性新生物をおき、それとじん肺との関連性をオッズ比で求めるという方法である。こうすれば、じん肺があろうとなかろうと、肺がん以外の癌ではその発生率に差はないと考えられるので、対照におく根拠ができると考えたのである。(註1)
 次に問題となるのは、剖検輯報のデータの集め方の歪みの問題である。先に記したように、臨床医の興味を引く症例がより高率に病理解剖にまわされ、決して死亡者から一定の割合で得られた症例が剖検輯報に記載されているわけではない。しかし、これは疾患ごとに抽出率が異なったサンプリングといえないだろうか。そうすると剖検輯報とは各疾患ごとに別々の抽出率で採集された集団であると規定できるのである。であれば、オッズ比の式では、それらの抽出率は相殺できる。すなわち剖検輯報の処理において、オッズ比を用いれば、抽出率の問題は克服され、結果に影響しないことになる。(註2)
 それらの処理の結果、得られた肺がんのオッズ比は3.84となり、千代谷らのコホート結果の4.1とほぼ一致した。それに比べ、横山の値は、比較可能性のない比例死亡比であるだけでなく、この抽出率の問題を考えると、それは単に剖検輯報上の比例死亡比にすぎず、母集団における比例死亡比を推定さえできないのである。
 私は、以上の論理展開を92年12月に福岡高裁において証言した。しかし、それで論争は終ったわけではなかった。福岡高裁においては、翌93年2月に産業医大の東教授が反論の意見書を提出し、また同じくじん肺と肺がんの合併で争われていた広島地裁でも3月に愛知県がんセンタ−研究所の富永所長が国側証人として批判を行ったのである。

 「やれやれ。敵は慶応と東大かと思っていたら、今度は産業医大と愛知がんセンターまで加わるみたいだよ」
私は医局の同僚である有沢に向かって嘆いた。
「権威の質と量で圧倒的に負けとるなあ」
有沢は笑いながら答えた。
「ただ、裁判長がその権威に目がくらむと問題だな」
 東によれば、山本意見書は一見極めて妥当に見えるが自己矛盾と符号性にとらわれたものにすぎない、という。そして横山論文は剖検輯報という限られた材料を出来得る限りの客観化を行ったものであると高く評価した。
有沢は笑いながら言った。
「まあ、横山と同じ慶応出の東にすれば横山を何とか助けないといけないということだろうな」
「そうだよ。俺に言わせれば東なんてのはできの悪い中学生並みの論理さ」
私は有沢に説明を試みた。
「つまりね、俺が横山のはPMR(死亡構成比)にすぎない、PMRとコホート結果であるSMR(標準化死亡比)とか喫煙率の差による比較危険とは同じ数値として評価できないと言ったことには東も反論できないわけ。ところが、それなら2倍の肺がんリスクのでる喫煙影響のモデルをPMRで表したら横山のPMRと比較できるというわけさ。それで、これが喫煙影響で生じる構成率の違いとおっしゃるわけだ。で、ここで過去の遺物のPMRを持ち出すわけ。この2群の比較をPMRで求めてしまってるんだ。同じPMRならいいだろうというわけさ。で、PMRを求めてみると1.75。この1.75が喫煙影響で生じるPMRと東センセイはおっしゃるんだ。それが、横山が求めたPMRである1.63とほぼ同じだから、横山の値は喫煙影響の範囲だ、と言いきるわけ」(註3)
 「なるほど、そう言えんこともないか」
くわえ煙草の有沢は東意見書を見ながらうなずいた。
「ついでに言うと、1.75となる2群の構成は、俺の示したじん肺群と対照群の構成にほとんど一致してるとも言うわけよ」
 有沢は少し考えてから、「しかし・・・。肺がん以外の疾患が同じという根拠はあるのか」
「そう。それが最大の問題なわけ」
私は答えた。
「俺が横山批判で言った競合危険を東は全く無視しているわけよ」
東の意見書には、『肺癌以外の疾患の発生率は、じん肺症例群と対照群で差がないとする』という前提条件が明記されている。
「ああ、お前が以前言っていたじん肺そのものによる死亡の問題だな」
有沢は笑った。
「肺がん以外の発生率が同じなわけないわなあ。そら、無茶苦茶じゃが」
有沢は大笑いをした。
「だから東はできの悪い中学生だと言ったろ。もしできの悪い中学生じゃなければ悪質なトリックだよ」(註4)

 愛知県がんセンタ−研究所長、富永佑民。わが国における有数の疫学の権威である。その富永が広島地裁で国側証人として証言した。
「なんで広島でせなならんのですかねえ。あんたらの福岡高裁でしてくれりゃいいのに」
広島地裁のじん肺肺がん訴訟を一人で切り回している山田弁護士が愚痴をこぼした。
「疫学の大先生が証言するいうから主尋問を聞いてみたら、横山、山本論争の話しばかりでしょ。こりゃ先生らに責任とってもらわんとたまりませんわ」
富永の証言を受けて、山田は急遽大分の弁護団会議にやって来たのである。
「いや、御苦労をかけます」
徳田は言った。
「こんなのをそのまま通したらそれが福岡に書証として出されて大変な目にあいうところでした。お教えいただいて本当に感謝しています」
「おおかた広島が手薄だからここで通してしまえと国は考えたんでしょうなあ」
山田は忿懣やるかたないという顔をした。徳田は河野に聞いた。
「河野君、僕らの代理人申請はできているのかい」
「はい、できています。反対尋問は私たちもできます」
「山田先生、それじゃ一緒に反対尋問やりましょう」
言いながら徳田は河野のほうに向き、
「河野君、メインは君にお願いしますよ」
と付け加えた。富永の反対尋問には大分からも徳田、河野、瀬戸の3人の大分じん肺弁護団の弁護士が出席することになった。
 富永証人の反対尋問は稀にみる白熱した論戦となった。河野が競合危険の問題にしつこく食いさがったのである。富永は2月に行われた主尋問において、国側訟務検事から、
「山本は横山の方法論は単なるPMRにすぎないと指摘しているが」、という問いに対して、そのとうりですと明確に答えている。しかし、山本の悪性新生物に限定して検討したという部分を「理解できない」と突っぱねていたのだ。
 河野「そのことについて山本医師の補充意見書なり証言調書を読まれて理解はできたんでしょうか」
富永「いや、前よりは少しわかりましたけれども、どうしても理解できない点が残ります」
河野「理解できないというのは誤りだという意味ですか」
富永「誤りというよりも私には論理の展開がわからなくて、かなり論理が飛躍してしまっているものですから」
河野「ミエッティネンがオッズ比で相対危険度の近似値を導くに当っては目的以外の疾患の罹患率に差がないことを仮定するということが前提になるということを言っていることは御存知でしょうか」
富永「ええ、そいういう仮定が成り立たないと成立しないです」
河野「それで山本医師は目的以外の疾患の罹患率に差がないことを仮定するために悪性新生物に限定したと思うのですが、理解できないでしょうか」
富永「いえ、ミエッティネンの手法はわかりますし、それを応用されたこともわかるのですが、わからないのは競合死因の考慮ですね。競合死因をどうすればうまく避けて通れるかというところへ、いきなり癌全体を対象とすればというのが」
 富永も、症例対照研究における競合死因の意味が理解できないのである。富永の理解としての競合とは「肺癌とじん肺、どちらで先に亡くなるかという競合」というものであった。河野はなおも食いさがる。
河野「先生は先ほどじん肺で死ぬか肺癌で死ぬかというようなことを言われましたけど、こういうように単年度の剖検輯報をとった数値を前提とした場合、じん肺で死ななければ生存していたということですね。ほとんどは」
富永「ええ、まあ、生存していてまたほかの病気で亡くなられる可能性大きいですね」
 何故他の病気でなくなる可能性が大きいと言うのか。もどかしい思いを持ちながら河野は続けた。
「だから1年間をとった場合ですね、ほとんど生存しているということでしょう」
富永「そうですね」
 河野は汗を拭いた。やっとここまで認めさせた。これなら追い詰められるかもしれない、そう河野は思った。相手は疫学の権威である。この裁判にかかわるまで疫学など無縁であった自分が、その権威にたいして対等に尋問などできるのだろうか。しかも弁護士である自分が相手の専門である疫学論争をしなくてはならない。前夜、つい弱気になりそうな自分を奮い立てながら尋問趣意書を作っていて気がついたら深夜の2時を過ぎていた。河野の立てた獲得目標は4点あった。シリカ(珪酸)に発癌性が認められていること、千代谷の4.1倍という結果は喫煙では説明できないこと。横山のいうO/E比1.63は比例死亡比に過ぎず、千代谷の4.1倍とは比較できないこと。そして最後が、剖検輯報の検討にあたっては横山の方法に比し、山本の方法とその結果である3.84は妥当といえること、である。意外にも最初の3点は富永はあっさり認めた。しかし最後の山本の検討方法に関して、富永は理解できないと言い続けたのである。
 河野「コホート調査の場合ではじん肺死も肺癌死も元の母集団からの発生率は大きくないので他の死因に与える影響は大きくないと思うんですが、症例対照研究では生じた死因の構成でオッズ比を計算するわけですから、68例のじん肺死は無視できないと思うのですがどうですか」
富永「無視できないですね」
河野「じん肺の場合はじん肺死だけじゃなくて様々な呼吸器系の疾患がほかより増えるということが言われていますね」
富永「そうでしょう」
河野「となると、そういうものがいろいろ入っているよりも悪性新生物に限定したほうがより相対危険度の近似値をオッズ比で導くことになりませんか」
富永「いえ、そこが全くわからないんです。どうしてそこで全剖検例をコントロールにしていけないのかそれが理解できないんです」
 どうして理解できないのかこちらが聞きたい、河野は苛ら立ってきた。
河野「悪性新生物に限定してのオッズ比は意味がないと言われるんですか」
富永「いえ、意味がないことはないです。それが剖検例全体を対象にしたのと同じ結論になれば問題はありません」
同じ結論にならないところに問題の本質があるのだ。なぜ、悪性新生物に限定したのが富永は理解できないと言い続けたのか。そのカギが被告側の補充尋問でその一端が明らかにされた。
被告側代理人大西「先生が全剖検例を分母にしても、確かにこれはベストとは言えないと思うんですが、全癌を分母に持って来る場合と比べるとどうなんでしょうか」
富永「癌の疫学的研究で症例対照研究を使う場合には、普通私どもはコントロールとして癌以外の病気の人か、地域で健康な人を選びまして、なるべく癌をさけるようにしています」
 富永は肺がん以外の癌をコントロールに置くことに抵抗したのはこういう理由だったのである。ある要因がある癌だけでなく、癌以外の疾患のリスクも上げる、こういう複雑な状況の整理を要求されるような症例対照研究を富永は経験がないのであろうか。しかし、ある癌を症例としたとき、対照に他の癌を使わない、これはそれなりに正しい。それはある要因がある特定の癌だけでなく、他の癌にも影響している可能性があるからだ。つまり、それは他の癌が競合危険となることではないか。山本が行った、じん肺を対照からはずすということと実は同義なのである。そのことを結局最後まで富永は理解できなかったのである。

 「御苦労さん」
広島からの帰りの車中、徳田は河野の肩を叩いた。
「いや、よくねばった。実質的にはほとんど取れている。最後のがとれなかったのは、あれは富永さんに問題があるからだよ。君のせいじゃない」
河野は尋問が終った今、詰めきれなかったというもどかしい思いはあるものの我ながらよく闘えたという気分になっていた。
「富永さんは完璧におかしいけど、あの権威に対抗できる人を探さないといかんな」
徳田はもう次の手を考えていた。その晩、河野は飲んだ。何軒まわったのだろう。胸にしみる酒が苦いながらも心地よかった。


註1:オッズ比と羅患率比の概念を表を用いて説明する。まず、じん肺のあり、なしで肺がんとそれ以外の死因で下記のような構成表が得られたとする。
------------------------
            じん肺
           +     -
------------------------
症例(肺がん)   a     b
対照(その他)   c     d

小計         n1    n2
------------------------
母集団       N1    N2
------------------------
このときじん肺+群の肺がん罹患率はa/N1であり、じん肺−群のそれはb/N2である。コ
ホート調査のように母集団すなわちN1が把握できていると、この両群の罹患率比は
      (a/N1)/(b/N2)
で直接求めることができる。しかし、剖検輯報のような死亡症例だけが把握され、N1という母集団の数が不明な場合はそういう計算式で羅患率比を求めることができない。そのため、過去は便宜的に(a/n1)/(b/n2)でその比を求めた。これが比例死亡比(PMR)である。横山が使った方法がほぼこれにあたる。しかし、ハバード大の気鋭の疫学者ミエッティネンは、このような死亡実数しかわからない場合でもオッズ比によって罹患率比が求められることを証明した。すなわち対照の疾患がじん肺のありなしにかかわらず罹患率が同じであれば、c/N1=d/N2が成立する。その式はN2/N1=d/cと変換できる。罹患率比の式は(a/N1)/(b/N2)=(a/b)/(N2/N1)となるので、この分母N2/N1に先のd/cを代入すると、罹患率比=a*d/b*cという式が成立し、母集団数が不明でも罹患率比が求められるのである。そして、このa*d/b*cがオッズ比である。
 しかし、ここで問題となるのは、対照群の羅患率に差がないということが成立するかどうかである。これが成立しないとオッズ比は罹患率比を示すものではなくなる。「じん肺死」とはじん肺+群のみにしかない疾患である。したがって肺がん以外の疾患を対照としたときはこの「じん肺死」の影響が避けられず、c/N1=d/N2は成立しない。
 そこでじん肺のありなしにかかわらず一定の罹患率をとる架空の疾患Xという概念を仮定してみよう。もし対照にこの架空の疾患Xをおくと、さきのc/N1=d/N2は当然ながら成立する。ならば、このXを対照にして肺がんのオッズ比を求めれば、それはじん肺ありなし群間の罹患率比になるはずである。そこで肺がん以外の悪性新生物をこの架空の疾患Xとしたのが、今回の山本の論理である。この根拠として千代谷らのコホート調査では、肺がん以外の悪性新生物の罹患率比は1.1とほぼ等しいとされていることがあげられる。

註2:オッズ比と標本の抽出率の関係を整理してみる。剖検輯報に表された各疾患ごとの症例数は、元の母集団からある抽出率で選ばれたものと考えると、註1の表は次のように変更して記載されることになる。
-----------------------------
                                じん肺
                             +             -
-----------------------------
肺がん                γαa           αb

肺がん以外の
悪性新生物         γβc          βd

剖検輯報計           n1           n2
-----------------------------
母集団                 N1           N2
-----------------------------
ここでは肺がんは、一般肺がん死亡からαの抽出率で集められ、肺がん以外の悪性新生物
はβの抽出率で集められたと考えている。また、じん肺はγの抽出率がかかっている。その場合、オッズ比はγαa*βd/αb*γβcとなる。ここで注目してほしいのは、この抽出率α、β、γは分子分母に共通して存在することである。そのため、計算式上この抽出率は相殺され、この表からもオッズ比はもとの表と同等のa*d/b*cとなるのである。 したがって、剖検輯報にそのような抽出率の差があったにしても、c/N1=d/N2が成立すれば、オッズ比によって肺がんの羅患率比は推定できるのである。

註3:東は、じん肺群と対照群で喫煙率が違うとしてその違いからくる比較危険を2とした。そこで、死因構成としてじん肺群は肺がん10、対照群では5とし、その他の疾患は罹患率に差がないとして、それぞれ30とした。確かに2群がこの構成をとっていると、オッズ比は、10*30/5*30=2となる。その2群をPMRで表わそうというのが東の論理である。PMRは(10/40)/(5/35)=1.75となる。

註4:東意見書の誤りをもう一つ指摘しておく。東意見書は、競合危険について『じん肺死亡の中で、もしこの死因がなければ肺癌によって死亡すると予測される例数は、じん肺死亡数と肺癌死亡構成率の積で求めると、全体の肺癌合併数から見て無視はできないが、大きく結果を動かすものではない』と記載している。ところで、肺がん死亡数の増加は決して東のいうようにじん肺死亡数と肺癌構成率の積ではない。その方法で求めると、
68*56/224(じん肺死亡数*肺癌構成率)=17。すなわち56例の肺がんに17例加えた73例となる。これでは大きく結果を動かしてしまう。本当はじん肺死亡数と肺がん死亡率の積である。母集団における肺がん死亡率はさほど大きいものではない。10万人中100程度から、どんなにじん肺の肺がん死亡率が高くてもせいぜい2000までの範囲である。つまり、0.1%から2%の範囲の増加である。確かにそれであれば肺がん死亡数の増大は大きく結果を動かすものではない。しかし、その他の死因数が大きく動かされる、すなわち112例中68例が消えて、半分以下に減るのである。これではたとえPMRで求めても大きく結果は左右されることになる。母集団の概念を忘失した東の明らかな誤りである。


第4部 オッズの魔法使い

 「山本英二先生に頼んでみよう」
弁護士の徳田は、それしかないと考えた。今や福岡高裁におけるじん肺と肺癌の問題は剖検輯報をめぐる論争にその焦点が移っている。国側の富永証人、東意見書(註1)いずれもが慶応大学の横山を擁護し、山本意見書の批判を行っている。
「もちろんこの問題の白黒を全てこれに賭けるというのは危ない。我々は全体的な議論を踏まえて立証すべきです。しかし、何としてもこの論争には裁判長を納得させる決着をつけておく必要があります」
徳田は弁護団会議で述べた。
「河野先生。岡山に飛んでもらえますか」

 岡山に来るのは三度目かな。河野はタクシーから街並みを見ながら、学生のころ岡山に来たことを思い出していた。岡山駅から北に向かって走っていたタクシーは、やがて、山中の墓地をくぐり、狭い斜面の敷地に所狭しと建物が並ぶ所に出た。岡山理科大学である。構内に人はまばらであった。世間は連休だからなあと河野はつぶやいた。平成5年5月1日の午後であった。理学部1号館の4階に山本英二教授の部屋がある。河野は約束の午後1時、部屋の戸を叩いた。
「大分の河野です」
「やあ、ようこそ」
英二は部屋に河野を招いた。小柄で顎髭を短くたくわえているがにこやかな童顔の英二を見て、河野は少しほっとした。よかった。難しい人じゃなさそうだ。数学者に会うことは河野にとっても緊張を強いられるものだったからだ。
 「疫学理論の流れを考えたとき、1970年代までの古典疫学とそれ以後の現代疫学にわけることができます」
英二はゆっくりした語調で説明を始めた。
「そして、今問題になっている剖検輯報をめぐる論争は、この現代疫学理論で眺めると面白い展開になっているのです」
現代疫学理論は1970年代後半からミエッティネン、ロスマン、グリーンランドらアメリカの気鋭の疫学者が提唱した理論体系である。
「ところで河野さん。富永証言を読ませていただきましたけど、よく勉強されていますね」
河野は顔が赤らむ思いがした。
「ただ、先生は近似値という言葉を使っていましたが、あれは古典疫学の考え方で、現在の考え方では近似値ではなく、そのものの測定値になります。そういえば、富永さんも近似値と言っていましたね」
 疫学研究における母集団を、固定したものととらえるか、動的なものとしてとらえるか。これが古典疫学と現代疫学の差といえる。固定した母集団は時間がたつにつれ、疾患に罹ったり脱落したりして集団量が漸減していく。そのため症例対照研究において注目する疾患がまれな発生率をとる場合のみ、そのオッズ比は罹患率比とよく近似する。
「しかし、動的母集団の場合、まれな疾患という仮定は必要なく、オッズ比は近似値ではなく、罹患率比そのものとなるのです」
 動的母集団とは何だろう。河野にはイメージがつかみかねた。通常のコホート調査は、最初に母集団を把握して、それを追跡するのだから、確かにそのメンバーが死ぬと母集団は減る。それはわかる。それでは動的母集団とは何か。
「調査期間を通じて罹患率が一定であると仮定できる母集団のことです。これをリスク集団といいます」
英二の説明が続く。年をとらない母集団かな。死んだり、脱落するだけではなく、毎年新たなメンバーが生れてくる母集団。ある区間を流れる川の流れのようなものか。河野に少しイメージが浮かぶ。
 「でね、河野さん。この現代疫学理論から見たときに、剖検輯報のデータから肺癌の過剰リスクがないとする意見の方々の議論には誤りと混乱がみられるのです」
横山と東と富永のことだなと河野は思った。富永相手に尋問するために、一夜漬けの勉強でも疫学とは意外に面白かった。いや面白いような気がした。だが、訴訟は勝たねばならない。それが弁護士たる自分の仕事であり、勝負でもあるのだ。河野は気を引き締めた。
「リスク集団から死亡が発生して死亡集団ができます。そこから抽出したのが剖検集団ということになります。剖検輯報のことですね。リスク集団というのは毎年更新されるその年度の人口ということになります。するとこれらの関係は現代疫学理論のデザインそのものといえます」
英二は再び黒板に表を書きはじめた。 
「まず死亡集団を疫学的に表にするとこうなりますね」
-----------------------------------------------
             じん肺症   非じん肺症      計
-----------------------------------------------
肺癌死            A        B        M1
肺癌を除く   
  全癌死          C        D        M0
じん肺死           E       ゼロ        E
その他死           F        G        M2

全死             D1       D0        Dt
-----------------------------------------------
リスク集団         N1       N0        Nt
-----------------------------------------------
「目標は、このリスク集団における肺がんの罹患率比すなわち(A/N1)/(B/N0)を求めることです。そして剖検集団はここから抽出された集団ですから、表はこう変ります」
-----------------------------------------------
             じん肺症   非じん肺症      計
-----------------------------------------------
肺癌死           a         b        m1
肺癌を除く
  全癌死         c         d        m0
じん肺死          e         /         e
その他死          f         g        m2
-----------------------------------------------
全死            d1        d2        dt
-----------------------------------------------
「山本真さんの議論は、千代谷のコホートから肺癌を除く全癌死がじん肺症と独立、という知見から、コントロールにそれをあてて、オッズ比を求めたわけですね。そこで実際の抽出率はどのようになっているのかが問題となります。そこで同じ年度の人口動態統計を用いて実際にそれを調べてみました」
人口動態統計には、その年の全ての死因別の死亡実数が記載されている。剖検輯報は、あくまでその年に剖検された症例が載っているにすぎない。その両者の比が各疾患の抽出率である。それは上の二つの表の大文字と小文字との比といえる。つまりa/Aがじん肺肺がんの抽出率ということになる。
「すると剖検集団の全抽出率は、全死亡数と全剖検数との比ですね。それは5.7%でした。で、同じように計算してみると肺癌抽出率は11.8%、肺癌を除く全癌抽出率は12.1%。注目のじん肺死では9.7%でした。ですから問題にされていた疾患では全部だいたい10%くらいで差は実はあまりないんですね。ただ、これは推定になりますが、表の縦の差、つまりじん肺症か非じん肺症かということでは若干差が出ることになります」
山本真の補充意見書では、各疾患ごとの共通抽出率を想定していたが、じん肺の有無別では抽出率の差は考えていない。
「じん肺抽出率は9.7%、非じん肺症抽出率では5.7%となります。これは差があるということになるでしょう」
そういえば富永がアテンションバイアスがあると言っていたな。河野は富永証言を思い起こした。
「山本真さんの議論は疾患ごとの差、つまり横の抽出率の差を問題にしていましたが、実際はどうもその差はあまりない。むしろ縦の抽出率の差がありうるわけです」
やはり山本意見書には富永が言うように問題があるのか。河野は緊張した。しかし、
「ただ横でも縦でもオッズ比を用いる限り同じことになります」
という英二の言葉に胸をなでおろした。
「この部分で富永さんがじん肺症の抽出率が25%と証言していましたが、これは横山の全じん肺症176例を動態統計の703例で割った値でしょうが、これは剖検じん肺症を人口動態統計のじん肺死亡数で割った値で、じん肺死を割った値ではありません。ですから、これは富永さんの明らかな誤りですね。本当は約10%です」
そうなのか。反対尋問をしていたとき、自分は富永の言ったこの25%という部分が、何のことか全く理解できなかった。河野は眼から鱗が落ちる思いであった。
「ですから剖検集団は死亡集団からじん肺症、非じん肺症で異なる抽出率α1、α0で抽出された集団ということになります。つまり、a=α1A、b=α0B、c=α1C、d=α0Dですね」
英二は黒板の剖検集団の表を書き換えた。
---------------------------------------
           じん肺症       非じん肺症
---------------------------------------
肺がん        α1・A         α0・B
肺がんを除く
   全癌死     α1・C         α0・D
---------------------------------------
これで剖検輯報からオッズ比を出すと、α1A・α0D/α0B・α1D=AD/BC。そしてこれは、C/N1=D/N2ならば(A/N1)/(B/NO)です。つまり剖検集団からオッズ比を出すと、それは単に剖検集団のオッズ比ではなく、もとの死亡集団の罹患率比が求められることになります。抽出されたデータから母集団の罹患率を求めるというのが疫学の真髄です。縦でも横でも抽出率は消えてしまいますから山本真の出したオッズ比3.84は単に剖検輯報での値ではなくてリスク集団の肺癌死亡率比ということができます」
 河野は時間がたつのを忘れていた。剖検輯報のような偏りのあるデータから母集団がわかる、か。これが疫学の面白さなんだろうな。
「僕はこのことをオッズの魔法使いと呼んでいるんです」
英二は少しはにかんで河野に言った。
それでは富永や東の誤りは何か。
「しかし、PMRを用いるとオッズ比のように抽出率が排除できません。したがってPMRを用いた東や横山の議論では母集団の検討になっていないことがわかります」
「それでは富永のはどのような解釈になるんでしょう」
「富永さんはオッズ比を用いています。しかし、いいですか。コントロール群はじん肺症と独立の疾患を設定しなければなりません。ところがじん肺死というのはじん肺症と独立どころか直接関連する疾患です」
英二は河野を見ながら説明した。
「その意味からコントロール群にじん肺死を含めた全死群を入れてはならないのは自明です。じん肺死をコントロールに含めた富永さんの誤りは明らかです」
英二は断言した。そうなのだ。自分が富永を前に競合危険について論争したことは正しかったのだ。富永に山本英二の明快な説明を聞かせてやりたいと河野は切に思った。このオッズの魔法使いを法廷に呼びたい、と。
 「先生、今私に説明していただいたことを裁判長に証言として説明していただけますか」
河野はおそるおそる英二に聞いた。
「いいですよ。お役にたてるのならどうぞ使って下さい」

 「また出たよ。こんどこそお化けだよ」
裁判にはまた新たな国側の書証が提出されていた。国立がんセンターの水野正一という署名の意見書(註2)である。水野は、剖検輯報で見られた4倍という差は、じん肺肺がんが普通の肺がんの4倍の率で剖検された結果に過ぎないとした。じん肺に注目して、じん肺の剖検率が上がることにより肺がんが発見された結果であると。それまでの横山、和田、東らの意見書は、それなりにじん肺と肺がんの問題全般を押さえようとする姿勢がみられた。しかし、今回の水野のそれは、原告弁護団が立証の軸にしていた山本意見書、千代谷プロジェクト(註3)に的をしぼって批判してきた。その意味では姿勢の明確な意見書ではある。
「剖検輯報を最初に持ち出したのは国側の横山だぞ。ここにきて剖検輯報が駄目だというのは、将棋に負けそうになって、棋盤をひっくり返すようなもんじゃないか」
と私は有沢に言った。
「しかし、どうしてじん肺の剖検が増えたらそんなに肺がんが増えるわけだよ。もしじん肺を手当たり次第に剖検して、肺がんが4倍にも増えたらそれこそ大変な肺がん合併率ということになるじゃないか」
私は水野意見書を有沢にわたしながら言った。有沢は、
「論争が危ないんで、いよいよ国も極端なヤツを持ち出してきたということじゃないか」
と笑いながら答えて、
「しかし、この水野というヤツは、ちょっと思い込みが過ぎるな。ついでに誤字だらけだから、まともに読むとさっぱり意味が判らん」
と言いながら水野意見書をめくった。
山本、有沢は連名で、水野意見書批判を書いて福岡高裁に提出した。冒頭1ページが誤字対照表という意見書(註4)であった。

 「お忙しい先生にわざわざ福岡まで来ていただき、まことに申し訳ありません」
徳田は福岡高裁に向かうタクシーのなかで山本英二に頭を下げた。平成5年7月6日である。梅雨空の福岡の街は、博多どんたくの飾りが目をひいた。
「いやいや、現代疫学は論文などで知っていましたけど、この裁判につきあってみて、現代疫学の有効性が眼のあたりに見えてきて、実は僕も興奮しているんですよ」
英二はにこやかに答えた。
 証言は、河野と英二の一問一答で淡々と進んだ。約一時間の尋問の後、最後にまとめとして河野は訊ねた。
「横山教授というのは、どういう点が問題だったということですか」
「横山氏は相対危険度をPMRという物差しで測ったわけです。だけどこの物差しは非常に欠点の多い物差しだったということですね」
「富永氏のはどうですか」
「富永氏のところでは、症例対照研究の問題があったと思います。対照をどう選ぶべきかというところが、きちっと押さえきれていなかった間違いと思います」
「水野氏の議論はどこが問題ですか」
「結局水野氏は死亡集団から剖検集団にデータを取り出すときの抽出率を問題にしたと思います。そこを彼の仮定からデータを変える操作をしています。そこのところで誤りを犯したんだと思います」
「東さんについてはどうなんでしょう」
「東さんはPMRという欠点の多い物差しとSMRという非常に良い物差し、この二つの違う物差しで測ったもの同士を比較してしまうという混乱を起こしています」
河野は締めくくりの質問を行った。
「この剖検輯報を用いた症例対照研究などの一連の議論を先生が概括されて、どのような感想を持たれましたか」
「今回のこの疫学調査法における議論は、やはり現代疫学をきちっと理解してるかどうかが、議論がきちっとできたかどうかの分岐点だったと思います」


註1 1993年2月付け、産業医大作業病態学教授東敏昭による「意見書 じん肺と肺癌との関連について」。山本が横山論文について、喫煙の相対危険度とPMRを比較していると批判したことに対し、喫煙影響のシュミレーションをPMRで行い、それなら横山のPMRと比較できるとし、両者に差がないとした。しかし、そのシュミレーションは、横山と同様「じん肺死」の問題を無視しているという根本的なミスがある。

註2 国立がんセンター研究所、疫学情報システム研究室水野正一「じん肺と肺がんとの因果関係に関する一考察,山本意見書及び千代谷研究の問題点」と題された意見書。

註3 労災病院プロジェクト報告、じん肺と肺がんの関連に関する研究。主任研究者千代谷慶三(珪肺労災病院院長)。全国の11労災病院で療養中のじん肺患者3335例の追跡調査。じん肺患者における肺がん死亡率が、一般人の4.1倍であると報告した。1987年日本災害医学会雑誌35巻554-561頁。

註4 1993年6月30日付け、山本真,有澤豊武「意見書,水野氏の問題提起に答えて」

第5部 野中事件、終章

 当初の結審予定が、流れた。結審予定当日、国側が突然新たな書証を提出したのである。双方最終準備書面提出の日であったにもかかわらずにである。
 その書証とは、中災防報告書。正確には、中央労働防止協会より提出された、『じん肺り患者の病後の経過に関する調査研究結果報告書』という。珪肺労災病院元院長、中央じん肺審議会会長千代谷慶三、保健衛生大島正吾ら10名からなる本委員会と、岩見沢労災病院の大崎、珪肺労災病院の斎藤ら9名からなる専門委員会によって構成された調査研究委員会による、じん肺患者の追跡調査である。なお剖検輯報からの分析で、福岡高裁に国側の証拠を提出した慶応大学の横山哲朗も本委員のメンバーとなっている。
 報告書は、労働省が保有するじん肺患者のデータが用いられ、3本の調査がなされている。まず、労災病院でのじん肺死亡患者の死亡診断書のデータからの検討、次にじん肺による年金給付者の死亡調査、最後にじん肺管理手帳支給者の死亡調査である。
 「やれやれ。また、PMRだ」
福岡から帰りの列車のなかで報告書をめくりながら、河野は思わず唸った。今までの高裁の論争は、剖検輯報のデータの分析を巡って、横山の行ったPMRと、山本の求めたオッズ比のどちらに正当性があるかというものであった。この期に及んでなおPMRとは、と河野はため息が出るのを抑えられなかった。
「しかし、ということはまた同じ弱点があるということではないか」
河野は、まだまだこんなもので負ける気はしないと思い直し、報告書を持って大分協和病院に顔を出した。
「河野さん、凄い進歩ですね。前の横山論文のときは顔がこわばっていたけど、今度はずいぶん余裕があるじゃないですか」
私は、つい河野を冷やかしてしまった。
「だって、PMRでさえ差はあるというわけでしょう。それなら前のように検討しなおしたら返ってこちら側の証拠になるんじゃないかと思ったんですけど」。河野はもはや疫学の素人ではない。

 中災防報告書では、労災病院死亡調査では有意差なし、年金給付者死亡調査では約2倍の肺がんリスク、手帳支給者死亡調査でも約2倍とされている。このうち労災病院死亡者と手帳支給者の調査がPMRで求められ、年金給付者の調査ではSMRが指標として用いられていた。そして、年金給付者のそれでは有意差が出ているが、その他のものでは出ていないとして、結論を出すのを避けている。
「SMRとPMRを同列に扱ってはいけない、というのは、疫学の世界ではもはや常識ですよ。我々も裁判のなかでもそのことを何度も主張してきたわけです。委員のなかには疫学屋さんもいるはずなのに、どうしてこういうとんでもない結論を書いてしまうんですかねえ」
私は河野に言った。
「とにかく反論書くしかないでしょうね。いまさらこれの証拠価値がないと言って争っても仕方ないでしょうからね」

「SMRで有意差が出てるのに、PMRの結果が出てないといって否定するというのは出鱈目だよね」
岡山理科大の山本英二もまた同意見であった。河野は、弁護団会議のなかでこの問題についての考え方を述べた。
「いままでのこちらの主張が理解されているならば、この報告書の結論だけを裁判所が採用するということは、まずありえないと思います。それに両山本先生の御意見も、むしろこの結果はじん肺と肺がんの関連性を認める方向で理解できるというものです。確かに約4倍という肺がんリスクの線はやや難がでますけど、国の調査からも、正しい検討をすれば、じん肺と肺がんに関連ありという結論がでるんだということを、積極的に主張できると考えます」
「確かに、この問題で証人申請なりしてやると、またまた横山論文と同じくらい時間がかかる可能性がありますね。それで、二人の先生は反論を書いて下さるわけですか」
徳田が聞いた。
「とにかく次回結審を狙うとすれば、あまり日はないんですが、この程度の論文なら2ヵ月もあれば十分反論は書けるというふうに聞いています」
「わかりました。次回結審で行きましょう」
徳田は締めくくった。しかし、裁判長がどの程度これまでの議論を理解しているものか。これは賭けだなと徳田は感ぜざるを得なかった。

 結審の日がきた。平成6年2月14日である。最後に、野中トシ子の意見陳述が行われた。前回突然の国側の証拠申請で流れたものである。
 これまでの自分の気持ち、思いのたけを抑えた言葉でトシ子は語った。
「・・・その日は、先生方の回診の日で、部屋を出ようとすると『出ないでくれ』と言ったのですが言い含めて出ました。すぐ前の食堂にいましたら、そのときに主人の容体が急変したのです。ほんの少しの時間でした。今思ってもあの時、主人の言うことを聞いてやらなかったことを悔やみます。・・・主人が労災認定になった時、病気で苦しいけど少しは暮しが安定できるかなと考えました。けれど、この病気になった人は長生きできないのだと思うと、改めて悔しい気持ちがしました。・・・この11年間にじん肺という病気の事を少しは理解できました。もっと早くにこの病気がわかっていたら、今は後悔しています。思い返してみれば私は主人に何もしてあげられませんでした。この裁判に勝って主人に報告できたら喜んでくれるのではないかと思います。・・・まだまだ多くのじん肺の患者さんが主人と同じような病気になり、苦しみながらも一生懸命に生きていけるように病気に負けないよう頑張っています。この人々が少しでも明るく希望をもってその人々の不安が和らげるように国の方々にも判っていただきたいと思います。どうかその人々が安心できるような判決をお願いいたします」
 トシ子の陳述は終わった。トシ子は裁判官席に一礼し、振り返って傍聴席の息子の顔を見た。心が少し晴れるのを、トシ子は感じた。
 しばらくの間、傍聴席は、静かな感動に満ちていた。

「結審で、異議ないですな」
裁判長が左右の代理人席を見渡した。
「結審とします。判決期日は追ってお知らせします」
ついに、結審か。河野は書類をたたみながら呟いた。野中事件は、河野がじん肺弁護団に加わって、最初の肺がん事件である。徳田、安東、古田などの先輩弁護士諸氏は、管理3のじん肺に合併した肺がんを争った松山地裁の藤田事件を扱い、勝訴確定させている。自分が事務局を引き受けた野中事件で下手なことにさせるわけにはいかない、その一念でここまできた。
「中災防とはね。あやうくどんでん返し喰らうとこでしたね」
横井が河野に声をかけた。
「しかし、国側が横山、富永、東、水野、最後に権威をまとめて中災防。これは大訴訟なみの布陣ですよ」
「裁判長がしっかり見てくれているといいんですがねえ。流される人なら、権威で負けてしまいますよねえ」
河野が答えた。

 結審して、半年が過ぎた。昨年の冷夏とはうって代った猛暑の夏も、9月に入ってからは大陸からの冷気が流れ込み、朝夕は肌寒いくらいとなった。別件で徳田と会議で出会った私は徳田に、半年がたちましたね、と話しかけてみた。
「まだ全然裁判所から連絡がないんですよ」
徳田は、答えた。
「半年以内に判決期日が決まれば、勝訴。もし、決まらないようだと判決書き直しとか聞いてますが」
「いやー、私は勝てると確信はしているんですがねえ」
徳田はにこやかに少し顔を傾けて答えた。この少し前、大分の女子短大生殺人事件で被告にされたK氏を、福岡高裁においてDNA鑑定で『クロ』が出されたにもかかわらず、緻密な反対尋問で、実施されたDNA鑑定そのものの信頼性をひっくり返して保釈を勝ち取った徳田の顔にも、一瞬だが不安の翳りが通った。

「うーん、それは甘いんじゃないか。俺は弁護士の判断とは少し違うがな」
後で、徳田の話しを聞いた横井が、つぶやいた。
「最後の最後で弁護士まかせになってしまったが、彼等は時々とんでもない判断ミスをするからな」
土呂久訴訟を粘り強く闘い続けた横井には、中災防報告書を、反論の意見書だけで終わらせた訴訟方針にやや不満がある。とはいっても、結審した以上、打つ手もないのも事実である。まあ、まともに考えたらこちらが勝てるはずだ、とはいえ、裁判所は、中災防の権威を裁判所が越えられるものなのか。なかなか示されない判決期日を待ちながら、普段の仕事の中で、ときにこの件を思い出し、どこか気持ちの捌け口が見つからぬ日々を各人各様に過ごしていた。

 そのころ広島地裁での訴訟が最終段階を迎えていた。富永祐民の証人尋問を行った法廷である。その後は、福岡高裁に提出された各意見書の再提出などで、実質的な審理は殆ど行われず、結審を迎えようとしていた。国側最終準備書面は横山−山本論争について次の様に記していた。
 「横山研究については、山本真らによってオッズ比によらない点が批判されているが、日本剖検輯報の交絡因子や他の要因に関する情報量が不足していることを承知した上で、O/E比について検討したもので、いわゆるケースコントロール研究ではないことから、右批判は直ちに正当なものとは言い難い」とし、富永証言での「私ども疫学者が使う式とは違いますので、そのことさえ考慮しておけば一応の比較はできます」という言葉を引き合いに出して、正当性を強弁した。
 山本意見書に対しては、『研究方法論自体に妥当性はあるにしろ、・・・それほど高く評価することはできないと言うべきである』としたり、『対照群の選択に関して、統計理論上、要因暴露に関係するじん肺死を対照から除くべきであるとの山本らの見解については、その理論的正当性自体は否定し得ないにしろ、・・・果たしてもっとも妥当といえるかは疑問である』として『ただちに信用することはできないところである』とまとめていた。
 「あんたの意見書が評価されたり信用されたりするのを随分恐れた文章になっているな」
横井が私に声をかけた。
「いや、正直言って被告の国からこんなに評価されるとは思わんかった。広島の訟務検事は、ひょっとすると富永とかより正確に理解できているんじゃないかという気がするよ」
と、私は答えた。
「しかし、一応の比較とは何だ。剖検輯報を用いることによる限界は、横山も僕のも同じだ。だとしたら、方法論が妥当な方を正当に評価するというのが当たり前の態度じゃないのか」
「せめて、広島の訟務検事程度の理解が福岡の裁判官ができるといいんだが」
結局、結論は裁判官の理解の程度という議論に戻ってしまった。
「これが医療訴訟の危なさだな。刑事、民事一般の訴訟なら、裁判官もプロだ。だけど医療となると、全くの素人だから、陪審員と殆んどかわらない。素人の印象で決められるということは、権威に対抗できるかどうかがかなり怪しいことになる」
宮崎県立病院の透析拒否事件にも関わる私は、あらためて医療訴訟の難しさを感じていた。透析拒否事件の審理は、被告側証人に立った自治医大の教授が途方もなく偏った証言を行ったところであった。

 「ついに来たか」
河野は、依頼人との相談を事務所でしているとき、事務員から福岡高裁から電話が入っている旨の連絡を受けた。平成5年11月7日の昼過ぎであった。11月30日に判決申し渡しをするとの高裁書記官からの電話であった。
「さて、どっちに転ぶか」
河野は、相談を中座して、横井に電話で連絡を入れた。判決期日が決まったら、すぐ知らせて欲しいと、既に何度も横井たちから言われていた。

「やはり、バスを仕立てましょう。たとえどっちに転んでも、いや、負けたときこそ、家族をきちんと支えるという設定だけははずすわけにはいかんでしょう」
横井は、安全センターの会議で、裁判支援の方法を提案した。マスコミ対策などの方法を会議ではかりながら、横井は私に、
「山本サン。期日が近づいたら胃が痛くなるよ」
とささやいた。

 平成6年11月30日、判決日がきた。トシ子は、朝早く津久見の家を出て、大分に向かった。大分市寿町の労働会館の前が、集合場所であった。
「お父さんが、放射線治療をした県病も、もうここにはないのよ」
トシ子は、亡くなった夫に話しかけていた。労働会館の正面には、1年前まで県立病院があった。今は取り壊されて更地になっている。夫が亡くなってからの月日の遠さを、トシ子は感じた。
 トシ子にとっても福岡に向かうマイクロバスは、いつになく楽しかった。いっしょに向かう支援の人達の笑い声がまわりにあふれ、弁護士の説明も、勝訴を確信しているものだったからだ。
「松山、大分の両地裁で勝ったことがらは、福岡高裁で崩されたわけではありません。国側が意図的な証拠として横山論文を出してきましたが、こちらが完全に論破しているわけですから」
バスは、秋晴れの水明峠を越え、日田から高速に乗り入れた。景色が後ろに飛んでゆく。「お父さん。あと少しで終わるのよ」
夫がいそうな、碧い空に向かって、そっとトシ子は声をかけてみた。
 バスは、博多の町に入り、繁華街を抜け、左手に濠を見ながら裁判所の門をくぐった。「きれいに勝って、今晩はいい酒飲みたいですね」
誰となく、支援者のなかから声がかかった。
 トシ子は、皆と一緒に法廷に上がった。テレビカメラが来ている。今までの高裁では見たことがなかった。今日は判決なんだ、その思いにあらためて胸が詰る。
席に着いた。隣には長男が座った。狭い高裁の傍聴席は、支援者の人々で埋った。
法衣を来た裁判官が現れたとき、
「ただいまから、二分間、撮影時間をとります。都合の悪い方は出ていただいて結構です」
という裁判所職員の声がした。
裁判官も、弁護士も、検事も身じろぎもしない。時間が止ったような二分間であった。テレビカメラが退席した。裁判長が、判決文を取った。
「判決を言い渡します。主文。原判決を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は、一、二審とも被控訴人の負担とする」
「えっ」
トシ子の心が凍りついた。裁判官は、さっと席を立ち、退席していった。
全面敗訴であった。誰も動かない。いや動けないような虚脱した空気が傍聴席を占めた。
 弁護士の河野は、直後の記者会見で怒りをぶちまけた。
「国は、一人の証人さえ出せていないんですよ。こちらから反対尋問を行う機会を奪っておいて、五月雨式に根拠のない意見書を出して、それが通るというなんて、裁判長が原告に悪意を持っていたとしか、思えない」
会見の席で、大急ぎで判決を読んでいた弁護士の古田は、
「ざっと判決を見てみました。何も判断していない。いや、出来ていない。裁判所がこの問題を理解できなかったことが、原告敗訴の理由です」
同席した横井も口を開いた。
「ある事象が有って、それに対して論争があるとき、その論争のどちらが正しいかを判断しなければ、評価したことにならない。争いがあるから、裁判になって、当然論争も生じるわけであって、争いがあるから判断できないとするなら、裁判所は自らの存在を否定していることになる」
「つまり、じん肺に肺癌が生じることが、医学会の定説で、国も認めているなら裁判所も認めよう、そんな事態を想定しなければならない。しかし、そういう時には、当然肺癌は認定されていて、裁判所にくるはずがない」
記者会見が終わり、マスコミ人が一人、古田に近づいてきて言った。
「福岡高裁は、刑事部は比較的善良ですが、民事部は悪質なんです」
 河野らは、会見場から出て、一階のフロアに降りた。
「どうもすみませんでした。ご迷惑をおかけしました」
トシ子がやってきて頭を下げた。
「野中さん、あんたがあやまることない。僕等があやまらないかん。裁判所を過信していた僕等が悪いんです」
古田が、トシ子の手をとって詫びた。
 トシ子の思いは通らなかった。夫の政男が最後に見せた苦しい笑い顔がうかんだ。
「ひっきりなしに痰がでるわ。わしの肺は腐っとんじゃないんかのう」
その顔はそう言っていた。
「ごめんなさい、お父さん。皆さんがせっかく一生懸命してくれたけど、お国には認めてもらえませんでした」
今までの張っていた気持ちが弛んだ。涙が少しこぼれてきた。

 徳田は、電話をおろした。福岡に行けなかった徳田は、河野からの電話を事務所で待っていた。その電話が入った。それは最悪の結果であった。
「いまだ判定しがたし、か。要するに裁判所は判らなかったということか。スマートにやりすぎた。反対の意見書を書いたヤツを法廷にひっぱり出して、間違っていましたと言わさなかったのが甘かったか」
 「やはり」
同じく弁護士の安東は連絡を受けて、そう感じた。安東は、その三日前、同じ福岡高裁民事部で、逆転判決を喰らっていた。誤認逮捕であることが、福岡高裁刑事部で認められていながら、そのことに対し国家賠償請求を行った事件が、大分地裁では認められたが、高裁民事部で逆転されたのである。誤認逮捕も、それ相応の理由があるという判決であった。その時から、この野中事件もやられるという、予感めいたものが安東の胸を蓋っていた。
 その晩、反省会が労働会館で開かれた。福岡から戻った河野と横井が少し遅れて会場に現れた。二人は、反省会で配るため、福岡から帰るなり事務所に戻り、判決文をコピーしていた。普段明るい河野の顔は、その夕蒼白であった。本来は、勝利集会のはずであったその会場で、それぞれの反省と決意表明が順に行われていった。その間、配られたばかりの真新しい判決のコピーを繰っていた徳田の番がきた。
「ほぼ読めました。裁判所は、理解できていたのかという不安が、現実になってしまったなあというのが正直な感想です。横山論文に対する我々の反論と、それに対する東や富永、水野らの的外れの批判を、裁判所は際限のない論争が続いているとしか理解できなかったようです。しかも昔、反対論者であったころの千代谷の、発癌物質なら、10倍から15倍くらいの超過危険がでるが、じん肺の場合は6倍としてもずっと少ない、などという発言、つまり単なる印象程度のことが、裁判所の心証を形成しています。このような全く無根拠な印象に頼って、現時点での到達点を、裁判所が独自に評価するという努力を放棄した判決と言わざるを得ません。かかるうえは、広島の事案で、徹底的に、裁判所にもはっきりと見えるところで、消極説というものを論破するしかないと思います」
 判決は次のように記している。
「調査対象の選択や、解析方法の相違によっては、肯定的な結論が得られたり、得られなかったりするのであろうし、研究者の間で調査対象の選択や解析方法の正当性をめぐって際限のない議論が繰り返されており、いずれが正当であると判断できるような状況にはない」
これが、高裁での最大の議論となった横山−山本論争の、福岡高裁民事部による評価である。

 野中事件は、高裁逆転敗訴という結果となった。福岡高裁は、管理4にみの限定して認定している国の通達まで、「相応の根拠がある」と是認していた。問題にされたのは、管理4に限定していることであって、管理4のじん肺患者に肺がんを認定していることではない。このようなすりかえの論理を使っても、国の行っていることはまず無前提に認めるという、福岡高裁民事部の姿勢が端なくも表れていた。じん肺弁護団は、これから主戦場を広島に移し、再逆転の闘いを始めなければならない。途は暗く、狭いものかもしれないが、耐えて闘うしかない。そういう気持ちをそれぞれの胸に、反省会は終わった。外は木枯しであった。
「あーあ。これでこの件から解放されると思っていたのに、終わらなかったか」
二次会で、河野につい愚痴がでた。


註  宮崎県立病院透析拒否事件
 糖尿病、神経因性膀胱に罹患した42歳の精神障害のある女性が、腎不全を悪化させ、透析適応状態となったが、移送先の宮崎県立病院は、女性に、精神障害のために透析を理解できないという理由で治療を行わず、移送元の精神病院に送り返した。送り返されたとき、女性は、意識障害、下顎呼吸の状態で、移送後約1日で死亡した。遺族が、県立病院での主治医、及び県を相手に宮崎地裁に提訴した。裁判は、地裁、高裁とも原告勝訴。97年9月確定した。

 

付録

じん肺肺がん訴訟その後

野中事件は、高裁逆転敗訴となり、最高裁に上告された。下に記したその後の学問情勢の変化にもかかわらず、新たな審理が開始されることなく、最高裁は99年10月12日、上告棄却を決定した。同種の事件としては、広島、札幌、福岡の裁判所で審理された。札幌は、地裁勝訴、高裁敗訴、最高裁棄却として敗訴が確定したが、広島は、1996年地裁勝訴、2001年4月高裁原告勝訴となり、国は上告せず確定。福岡は地裁敗訴であったが、高裁へ進んだ。大分のじん肺弁護団も取り組むことになった広島の場合は、管理4に限定して肺がんが認定されている国の認定基準を、ある特定の因果関係が管理4のみに存在するわけではなく、管理3以下においてもそれと同等の不利益があれば認定されるべきだと判断したもので、じん肺と肺がんの因果関係についてはいまだ断定できないという判断ではあった。なお、韓国では、IARCの変更を受けて、肺がんをじん肺の合併症と認めた。韓国は、じん肺法について、日本のそれを参考に作られたとされているが、肺がんの扱いについては一歩先んじたといえる。

学問的な認識の変化としては、福岡高裁の審理終了後、1997年にIARC(国際がん研究機構。WHOの下部組織)が、じん肺の主たる原因物質であるシリカをそれまでのクラス2aからクラス1に評価を引き上げ、明らかなヒトに対する発がん物質との再評価を行った。その後米国国家毒性プログラムやドイツの発がん物質評価表でも同様に発がん物質との評価をするにいたり、わが国でも2001年4月、日本産業衛生学会許容濃度委員会はシリカを発がん物質との評価を行うにいたった。

それでも国はかたくなにじん肺に合併する肺がんの因果関係を否定(たとえば、IARCが認めても、ILOなど認めてない組織もあると言ったりした)していた。ただ、これらの国際的な認識の進展のなかで、いくつかの委員会をもち検討していたが、御用学者を動員するばかりのため、いずれもいまだ因果関係は断定できないという結論を繰り返すばかりであった。しかし、2001年4月の産衛の新判断、6月の広島高裁原告勝訴確定を受けて、条件付きながら管理3ロまでは現場で肺がんを認定して差し支えないという新通達を流した。このような状況の変化を受けざるをえなくなり、新たな委員会「肺がんを併発するじん肺の健康管理等に関する検討会」を2001年7月に召集し、認定基準を変更するかどうか検討することになった。同時期に作られたもう一つの検討委員会である、不利益検討委員会が、管理3においても、早期発見、治療に不利益が出るが、管理2では明らかではない、という結論を出し、2002年3月11日、管理3イ以上のじん肺に合併した肺がんを、無条件で業務上として認定するという厚生労働省の見解が出された。もちろんこの基準であれば、当然野中政男は認定されたことになる。最高裁が本件を棄却して2年半後のことである。しかし、管理2に合併した肺がんの扱いはどうするかなど、結局この段階では本質的な解決とはいえなかった。


しかし、2002年8月8日、厚生労働省は、ついに肺がんをじん肺の合併症とすることを認めた。因果関係委員会の議論より、じん肺における肺がんのリスクは、通常人の3.71倍であり、じん肺の程度に左右されないとして、全てのじん肺(すなわち管理2以上)において、肺がんを合併症とする意見を受けたものという。じん肺における肺がんのリスクは1.7倍に過ぎないとした横山論文の反証として、私が算出した相対危険度は3.84であった。ついに国はこちらの主張のリスクを全面的に認めるにいたったのである。初めて野中さんの事例を私が見せられてから12年が経ち、この問題が完全に解決したことになる。野中事件上告棄却から3年後のことである。

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